【金多研究室】吾川正明「自分の仕事を好きにならな」
― KKD から TQC への転換
安全第一という言葉が本当の意味でのお題目に変わってから、「安全はすべてに優先する」という言葉が使われるようになりました。安全第一で作業をすれば、それに伴って Q/C/D/E(品質、コスト、工期、環境)の良い影響につながるものとなる、という考え方です。それまで先輩たちの言い伝えに基づいて KKD(勘、経験、度胸)で現場を動かしていたところから、蓄積した歩掛等のデータをもとに数字でものを考えるように変わっていきました。100t の鉄筋は延何人で組み立てられるのか、計算できる時代になったわけです。こうして、製造業では既に取り組まれていたTQC(Total Quality Control、全社的品質管理)が建設産業でも導入されるようになりました。それまで品質管理はゼネコン側のみが考えていることが多かったのですが、TQC導入後は実際にものをつくる一次・二次下請けの人たちも巻き込んで、この工期、材料、手順で設計図書通りの品質が確保できるかを議論するようになりました。そうしたなかで P/D/C/A(Plan、Do、Check、Act)のサイクルを回していきます。工程表に関してもバーチャートからネットワーク工程表、CPM(Critical Pass Method)に変わっていきました。これにより前者責任、つまり前の工程の人が工程通りに仕事を終わらせることが大事である、という考え方も根付きました。こうした取り組みは成功し、ゼネコンと専門工事業者は共に成長したといえます。
技術者としてこうしたことを活用するためにはただ漠然と仕事をするのではなく、大工がどれだけの歩掛で仕事をしてくれているのかを数字で考えて行くことが重要です。これは、職人の「手元」をするなかで経験として歩掛が分かるようになるという面もあります。手や服が汚れようとやっぱり経験しないとわからない。つまりは、施工管理というのは段取りひとつなんです。段取り七分八分、乱暴な言い方ですけれど、それだけ段取りができていたらあとは放っといても建物はできるんです。
一方で、現場は数字だけで見るのではなく、音、におい、触感といった五感を駆使して様々なことが感じとることも大切です。時には現場のただならぬ空気感を第六感的に感じ取って山留を確認したところ、重大災害につながる恐れのあるほどの箇所を見つけ、有無を言わさず補強改善したこともあります。
― 1980年代:技術営業という仕事
1980 年代になると建設の冬の時代も終わり、内需拡大のブームで仕事もたくさん増えて来ました。私も施工管理ばかりをしていたのですが、そのうち「技術営業」という職を兼任することになりました。営業というのはとかく口がうまく、お客さんを取り込もうという術には長けていますが、いざ技術的なことを突っ込まれると「明日持ち帰ってご返事いたします」というパターンが増えて発注者は不安がるケースがありました。ならば、実際に技術の分かる人が一緒に行って説明すればよい、これが技術営業です。そんななか、多摩ニュータウンの工事で 1 年だけという約束で東京に赴任したところ、竣工検査の日に会社から「もう 1 年残ってくれ」という話が来ました。宮仕えの身ですから拒否も出来ませんでしたし、性格的にもチャレンジしてみよう、という強いマインドもありました。
しかし、工事の方は何とかなっても営業の方はど素人です。午前中は工事部長として業者さんに偉そうなことを言っていたのが、午後からは営業としてとってつけたような挨拶をして、大阪流に手もみしながら「仕事貰えませんか」とお願いする立場になったわけです。その時に、「営業というのは『飽きない(=商い)』、飽きずに相手に出向いて仕事を頂くのが大事だ」と、当時の PC 製作業者の営業の方に教えていただきました。多摩ニュータウンの現場で PC 製作業者と値段交渉をするときに、大阪では数度ネゴして決めるところを東京では一度で決めてしまいたいとは知らず、その人と喧嘩してしまいました。「虎ノ門から多摩まで半日かけていったのに、あの時の交渉はなんだったのか」と責められたわけです。2 年目になって技術営業になった時には一番にその人に会いに行って、営業について教えを乞いました。その時に、相手が自分に情が移るほどに会いにいかなければ仕事は貰えないものだと教えてもらいました。大手だから仕事がもらえるのではない、「あの人だから任せてみよう」、「あいつならやってくれるだろう」という信頼のもとで発注してくれる。そういうことを技術営業活動をしていくなかで学びました。
― 1990年代:米国への研究出張
1995 年、東京から大阪に帰ってきたころ、会社で若手向けに海外研修制度というのができていました。若手の社員がみんな出さなかったので、「しゃあないな、自分が出すわ」と出したところ、なんと通ってしまいました。そこからは自分でプランを立て、相手方に FAX でコンタクトを取り、50 歳で初めて飛行機に乗って小 1 ヶ月アメリカにいかせてもらいました。何を勉強しにいったかというとCM(Construction Management)についてです。京都大学の古阪秀三先生(現:立命館大学客員教授)を中心に導入が叫ばれていたころで、じゃあ上陸する前に助平根性で見てこようというわけです。ニューヨークではアメリカ竹中事務所、KPF 設計事務所を訪ね、シカゴではシャール・ボヴィス(現:レンドリース)が CM をした海軍桟橋のプロジェクトやシアーズタワー、ヒューストンでは GMP (GuaranteeMaximum Price、最高限度確保証)を採用した病院のプロジェクト、アトランタでは大林組が請け負っていたアトランタオリンピックの選手宿舎の現場を見学させてもらいました。ワシントン DC では世界銀行の知人に銀行目線での日本の CM や建築生産(Management)に関する動向について意見を頂いたり、建設省の出先機関だった建設経済研究所の所長に面談をお願いしたり。アメリカで驚いたのは、著名な人と会うのにお金を払わなければいけないことです。「私の時間をあなたに売るのだから 10 万円払ってください」と言われ、退くこともできず自腹を切ることにしました。ところが対談時間が半分になったので、「半値にしてくれませんか」と頼んだら快く理解していただけました。
それからは毎年有給をとって自主的に渡米するようになりました。1 年目とは違い、毎回飛び込みで現場見学を申し出るようになりましたが、日本の会社は「所長の許可がいる」、「誰のつてですか」なんて構えるのに対して、アメリカの人はオープンで、名刺を見せたら快く見せてくれたことが印象的でした。その頃に勉強した CM の内容は今でも継続して研究しています。
― ISO9000s の導入
そうこうしているうちに、当時の建設省(現:国土交通省)が旗振りをして ISO9000s の導入が叫ばれるようになりました。日本の国内においても建設ブームが盛んになっていき、一方 WTO の関係で一定額以上のプロジェクトになると海外のゼネコンを参入させるようになりました。1994 年の関西国際空港の管制塔はシャール・ボヴィスが、1999 年の京都駅ではフルーア・ダニエルが参加しています。海外の建設会社が日本に来る、日本の建設会社も技術を持って海外へいく、そういう時代になりました。そうすると文化の違う人々同士のやりあいになるわけです。そこで共通のルールとして作られたのが ISO(International Organization for Standardization)です。
そもそも ISO というのは製造業から端を発したもので、文書主義に基づくものです。日本は ( 旧 ) 四会連合工事請負約款にも記してある通り信義則で、相手を信用し、阿吽の呼吸で「いつまでにこれをつくってくれ」とお願いするのですが、一方で「いったいわん、聞いた聞かん」で争い事が起こる。一方で、海外は不信義則であり、書いた文書に従って争いを解決しようとする。日本ではこういったことが特に弱かったわけです。
そこでコンサルタントに頼むと 850 万から 1,000 万円程度で ISO 認証を取得できると社長に進言したところ、「そんなことに金を使うな」と一喝却下。「ならば自分たちでやってやろう」ということで若手を 5 人ばかり集めて ISO認証取得プロジェクトを立ち上げました。文書化は特に大変で、既成のものを会社独自のものに合うようにするためには相当の手術をしなければなりませんでした。努力の甲斐もあって、明確な文書体系を作成することができました。
結果何が明確になったかというと、役割と権限です。それまでの日本の文化では 1 枚の文書に 5 人も 10 人もハンコを押して、自分の押す欄がなかったらグチグチいう人がいるくらいでした。それでいて何か問題が起こると責任を取りたがらない。それが ISO では文書を起案する人(作成者)、審査する人(審査者)、承認した人(承認者)、これら 3 人がいれば済む。だから印鑑を押す欄は 3 つで済みます。こうすることで、今までは曖昧だった役割と権限を明確にしたうえで会社を動かしていくことができるようになりました。
― 2000年代:退職、研究生に
2007 年の 6 月末日、株主総会の後に 44 年間勤めあげた会社を退職することになりました。しかし、その前から大学というところには興味がありました。入社当時は高卒が今の大卒みたいなものでしたので、中卒の技能労働者と高卒のゼネコンの技術者がコミュニケーションをとって、KKD でものをつくっていたわけですが、それが学歴社会になるにつれて会社も大卒しか雇わなくなり、1970 年代には新卒は最初は技術系 6 〜 7 人だったのが 60 人も 70 人もとるようになっていました。大卒の社員は皆自分たちが知らないような言い回しの言語を使ってものを言うし、確かにプレゼンテーションは大げさすぎる程にうまい。初任給も最初は下かも知れないけれど、そのうち自分たちを抜いていく。「えらい世の中になるんや」と、正直ある種の劣等感を感じました。でも、実行力やマネジメント能力がなかったら現場も会社も動かない。「お前ら、大学で何習ってきてん」という話でね。「大学ってどういうところなんやろな」と単純に好奇心もあり、現役を退いたら建築について再度復習してみたいという気持ちもありました。それから誰にも言うことなく大学行きを決めて、会社の送別会で初めてそのことを話したら皆に驚かれました。
最初は CM や ISO 導入の頃に東京の中央技術研究所のレクチャーにお呼びしたご縁で古阪先生のところで学ばせていただく予定でした。しかし実姉が認知症にかかって介護をするために、単身広島大学の地盤工学分野でマネジメント分野を研究されていた土田孝先生の研究室に研究生としてお世話になりました。姉に回復の見込みがなくなってくると関西に戻り、2009 年の前期から古阪研究室に研究生として所属することになりました。しかし私は高卒で、いきなり大学院に研究生として入ることができないので、大学の規則に基づき能力確認のために事前審査を受けることになりました。小論文を書き、それをパワーポイントに起こして、専攻長、学科長、担当教員の前でプレゼンと口頭試問を受ける。その口頭試問時にはアカデミックと実務で「品質」という言葉の定義が微妙に違い議論になりましたが、古阪先生が上手く調整してくださいました。その事前プロセスを通過し、その時初めて願書提出の許可が出ました。こうして京都大学の学生さんたちとの出会いの機会を得ることができたのです。
京都大学に入ってから技術報告集など 13 本ほど論文を作成・投稿と発表もさせてもらいました。また、古阪先生からの奨めもあって、ICCEPM(International Conference on Construction Engineering and Project Management)をはじめとする国内外の研究発表会にも参加させてもらいました。在職中には論文なんて書く機会はありませんでした。「そんなん書く暇があったら仕事せえ」と言われるのがオチでしたから。だから文章を書くと主観が入ってしまう。実務の経験からどうしても「こうあるべき」という断言を入れてしまう文体となりがちでした。だけど論文は客観的な表現であらねばならないと古阪先生から強く指導していただきました。
― 今、伝えたいこと
勤めていた会社の理念的ワードとして「最初に人」というものがあります。ありきたりな言葉かもしれませんけど、人との出会いというのは大事なものなんです。それは打算という意味ではなく、ただただ真剣勝負でまともなことしか言わず、細く長く繋がっていくことが大事で、それが無ければ今はありません。古阪先生や金多先生も在職中から存じ上げていて、今はこうしてお世話になっていますが、周りの人はまさか吾川が京都大学に行くなんて想像もしていなかったでしょう。アカデミックと建設業なんてほとんど接点がありませんでしたから。こうして人とのつながりを持つことが出来たのは自分にとって宝でしたね。
学生のみなさんも、卒業したら何がしたい、という目的・目標があるべきかと思います。その時に、自分の生い立ちと性格とを加味しながら、自分は何ができるか、何がしたいかを早く分かってほしい。もちろん、たまには寄り道も良いんです。昔のような終身雇用の時代でもないですから、一生の間に 3 つ 4 つ仕事を変えることもあるかもしれない。今はまだ経歴や履歴を見た時に「長続きできないのか」というような色眼鏡で見られるかもしれないけれど、いずれ社会の見る目も慣れてくるでしょう。経歴の中で得られた能力を相手に売る、値付けをしてもらえるものを自分で作っていくことができれば、どんどん転職したっていいじゃないですか。それでも、今自分がやっていることが好きだ、とピタッと合っていることを悟れるようなある意味天職に就かないと、残された人生を楽しく過ごすことはできないんじゃないかなぁ。振り返ってみると仕事が好きだったから、つらいともやめたいとも思わなかった。だから自分の仕事を好きにならなあかんわな。