【金多研究室】吾川正明「自分の仕事を好きにならな」
博士後期課程3回生 田村篤
京都大学金多研究室 研究生 吾川正明さん インタビュー
自分の仕事を好きにならな
聞き手=田村、中川、春日亀、多田
2019.9.2 京都大学金多研究室にて
― 幼少期:母の後ろ姿、父の寝姿
私の生い立ちからいうと 1944 年の京都・山科の生まれでして、父がカネボウを定年になった年に故郷である広島・尾道に家族全員で移住しました。兄1人、姉 2 人で私は一番おとんぼ(末っ子)。帰郷した当初は家庭的にも経済的にも非常に恵まれた状況だったのですが、退職金をもとに父が始めた事業が、慣れない商売で騙され食い物にされ失敗しまいました。幸い 3 人の兄姉たちは職に就いていましたから自活できる状況だったのですが、私だけまだ小学校 2 年生でした。人間というのは弱いもので、仕事一筋の石部金吉のような人だった父は体を悪くして寝込んでしまい、そのあいだの働き手というのは誰かといえば傍にいる母と兄夫婦だけ。母は父の面倒を見つつ、重荷を背負っての路店商や行商で一生懸命に早朝から深夜まで私のため、生活のために仕事をしてくれました。とりわけ私は、働く母親の後ろ姿と病で床に伏す父の寝姿を見ながら育ったわけです。
― 高校時代:寿司屋の板前になりたかった
そうこうしているうちに中学校 3 年になったのですが、私自身はあまり勉強も好きではなかったですし、家の事情のこともありましたので、大阪に行って寿司職人になりたいと考えていました。お客に向かって「いらっしゃい!!」といって寿司を握る、ああいう威勢のいい仕事がしたいという願望がネアカな自分にはありました。ですが周りから「せめて高校は出てほしい」と諭されて、だったらものづくりが好きだから、とうことで奨学資金を頂いて広島県立福山工業高校の建築学科に進学しました。入学した次の日から実習服と大工道具を一式購入させられて、木造の継手・仕口を墨ツボで墨付けして、鋸入れし、ノミでホゾ掘るなどして組み立てていく実習の日々。最終的には木造一式が出来るように鍛えられたものです。鉄骨・鉄筋・コンクリートも同様でした。毎回のように製図の宿題が出るので、休日は自作の製図版を使って自宅で製図を行っていました。専門過程をみっちりやるぶん、教養課程は単位数が少ないため、大学に進学する学生はほとんどおらず、多くは卒業後にゼネコン等に就職していました。私も最初は準大手ゼネコンを受けて、そこがダメだったのでコーナン建設を受け、めでたくそこに就職することになりました。
生涯忘れることのない心に残っている思い出が一つあります。私がおとんぼでもあり貧乏な生活の中で不憫な思いをさせた無念さと、明日から親許を離れていく寂しさも重なったのか、いよいよ尾道から大阪に発つ前夜に母から「今晩一晩だけ一緒に寝てくれへん」と頼まれました。一瞬恥ずかしさもありながらも否とも言えず、一つの布団で親子一緒に寝た母の愛を感じた最後の夜でした。翌日は親戚一同が駅のホームまで来て見送りをしてもらいました。母は大阪までは送れないので、途中の岡山まで送ってきてくれました。「そこから先は自分一人でいって」と。思えば貧乏な生活体験の数々はその後の私の人生の宝となっております。
― 1960年代:現場仕事とおさんどん
大阪駅に出迎えに来た 2 人の先輩に連れて行かれた「宿舎」は、コンクリートを打った後の型枠パネルを組み立てて、上に角材等を小屋組みしてトタン屋根を葺いた掘立小屋でした。夏は暑いし冬は寒い、隙間風もびゅうびゅう吹き込んできます。台風が来た時は宿舎が飛ばされないか心配していたものです。宿舎の中ではたいてい一番若い人がおさんどんをするんです。朝昼晩の買い物もするし、食事も作るし、洗い物もします。仮設事務所の掃き清掃、拭き掃除してから、上司を起こしたり、布団の上げ下ろしをしたり。多くのゼネコンの現場事務所兼宿舎の隣の棟には職人の飯場(宿舎)がありましたので、夫婦で来ている職人が賄い人役もしてくれてお金を払って三食お願いしていた時期もありましたね。
休日は良くて月 1 回か、2 ヶ月間無休のときもありました。現場宿泊の現場だと 1 年間 365 日 24 時間一本勝負という思いです。建前は 8 時から 17 時ですけどね。その時間帯は現場管理をしつつ、職人の「手元」をするわけです。たいていの場合、職人は中学校を出てすぐに仕事に就いていますから、「こんなんも分からんのか、お前ら高校で何習ってきてん」と良く言われたものです。それが終わると現場事務所で夜中まで施工図を描いていました。うまい下手もありますが「こんなもん使われへんわ」と目の前でビリビリと破られることもありました。
それでも、自分の場合は現場の仕事についての不平不満はありませんでした。ただ、他の同期とは違って最初の仕事は改修工事が主でしたので、出遅れた部分はありました。月に一回の社内報告会では「今日は何階のコンクリを打った」といった自分には経験のない話が出てくるので、これはいかんなあと思って裏で勉強をしていました。その甲斐もあって、1970 年代に入る頃には 2 級建築士を取る前でしたけど、会社の上司の届け出で実質的な現場代理人になっていました。頑張ったおかげで早く仕事ができるようになりましたし、やっぱり、この仕事が好きやったから。
― 1970年代:変わり始める現場
1970 年代に入ると近隣問題が発生するようになりました。それまではみんな働く姿に同情的で優しくて、近隣の方がごちそうにバラ寿司をつくったからとおすそ分けにもってきてくれたり、近所の皆さんとのコミュニケーションもスムーズでした。しかし、建設工事に伴う近隣パワーが社会問題になると、自分の子供や孫が通うであろう学校の工事にクレームをかけて、「杭を打てるもんなら打ってみろ、機械の下に若い衆を寝さすから」なんて声を掛けられるようになりました。近隣説明会でも役所の担当者は怖くて対応できず、ゼネコン側が対応せざるを得ませんでした。反面、休みはなくて当然だった建設業が住民パワーによって「朝は何時まで、夜は何時まで、日曜日はしたらあかん」と言われ、ようやく日曜日が休めるようになった側面もあります。
前向きな方向にも現場は変わっていきました。特に、1970 年代に入って労働安全衛生法が施行されてから、現場の安全意識は大きく変わりました。いわゆる飲み会・親睦会にすぎず、現場の安全につながるものではなかった安全協力会が、改めて「安全衛生協力会」として組織され、本来の意味を持ち始めました。現場での作業のありよう・やりよう・姿勢が変わったわけです。それまでの日本では「怪我と弁当は自分持ち」と言われていて、「怪我したら自分で病院行って治してこい」という雰囲気がありました。しかし、あまりにも建設現場での労働災害事故が増えてきたということで、他産業以上に「労災隠し」が目立つようになります。労災隠しとは、ある現場で技能労働者が怪我をした場合に、本来なら元請責任で対応するのが本筋なのに、専門工事業者がかけている労災保険から支払わせるように仕向け、事故を表に出さないようにすることです。実際に事故に遭った人たちは十分な対応をしてもらえないということで労基署に申し入れを行うようになり、同業他社では新聞沙汰になったことさえありました。こうしたなかで、ひとつの現場で起こった事故は元請側の保険で対応しなければならない、というふうに皆の意識が変わっていきました。
もちろん、それだけで事故が減ったわけではなく、全産業から見た労働災害率は高いままでした。それを目に見えるように改善、改革したのが、各現場の日々の朝礼・昼礼・夕礼ミーティングの導入です。今は当たり前になった制度ですが、これらのミーティングによる技能労働者への意識高揚・啓蒙によって事故率は大きく減少したと記憶しています。まず朝礼は 8 時から行われ、現場に入場した全ての人を対象に、ラジオ体操から始まり、各工種・工区別に作業範囲内での安全に関わる KY(危険予知)活動を行います。昼礼では 12 時 45 分もしくは 13 時からゼネコンの職員がリーダーシップを執って、当日現場に来てもらっている全職種の職長を集めて毎日打ち合わせをします。当日や翌日の工程説明と、それに伴う安全衛生のための説明やお願いをし、同時に午後の作業や翌日の材料・技能労働者の手配、揚重計画の順番決めも行いました。夕礼では 17 時以降に元請け側の職員のみで行われ、昼礼で出た様々な問題の解決状況を元請け内で共有します。このように仕事の進め方が進化し、現場の意識が改善されたターニングポイントだと理解しています。