都市の相貌/建築の顔|竹山 聖

― コンテクスチュアリズム

 ファサードの復権にはコンテクスチュアリズムの思想もまた大きく寄与した。モダニズム建築は単体としてデザインされているから都市の文脈との関わりを失っている。建築を設計するにはその場のコンテクストを読み取らねばならない。確かに。

モダニズムの理想形態が一品もののオブジェであったことは確かであって、代表的な作品はみな個として屹然と立ち尽くしている。サヴォワ邸、落水荘、ファンズワース邸などの郊外の一軒家は言うまでもなく、都市にあっても周囲のコンテクストにむしろ戦いを挑み、旧態依然とした因襲的街並みに冷水を浴びせかける。あるいは孤高の自立、そして離立を果たす。

 歴史的な街並みにとって、モダニズムは両刃の剣であった。とりわけデザインの下手な、テクノクラート的な処理が、つまり良くも悪くもただ「合理的」な処理がなされて、均質な反復に堕していった場合にはなおのこと。コンテクストはモダニズムのアキレス腱だった。

 もっとも日本の場合、問題は実は別の次元にある。つまり尊重したり争ったりするべきコンテクストそのものが、確定できなかったり不明だったり、どんどん変化していく。頼るべきコンテクストが、ない。生活形態も大きく変化するし、不燃化、高密度化、交通形態の変化など現代都市に適した建築の在りようを模索している段階だからだ。定常状態からは程遠い。

 ヨーロッパのように、ある程度安定した都市のコンテクストを持った都市の場合、まったく周囲から浮いた建築物が出現するのは、迷惑千万な話だ。よっぽど優れた建築でない限り。モダニズム建築は基本的な善意に根ざしていて、誰もがミース・ファン・デル・ローエやル・コルビュジエのようなデザインセンスを持っているという前提で展開されてきたから、街並みの多くは残念な結果になった。センスのない建築設計者には、コンテクストの尊重とコードの遵守とを誓わせねばならない。反語的かつアイロニカルに言えば、そういうことになる。

 モダニズム建築への失望と反省がコンテクスチュアリズムを生んだ。この観点からも、ファサードは見直される。都市の道や広場という公共の場に面する建物のマナーの問題だからである。正餐に臨むにはナイフとフォークの使い方を知らねばならない。きちんとした顔を持たねばならない。これは明治期の日本の建築や都市の在りようを探った人々の直面した課題でもあった。

 明治において、公共建築は、だから西洋風でなければならず、その技術者を養成する教育機関で教えられるのは西洋建築の様式でなければならなかった。正餐がすたれ、マナーが変わったときには、また違った形が要求される。いまは多様な食べ方を文化として認める時代となった。普遍的な価値への展望が失われてしまった。

 普遍と特殊は逆立した関係であるというより、補完的な関係にある。文明は普遍を志向し、文化は特殊へと赴く。文明は広がりを求め、文化は深みへと向かう。歴史は振り子である。

 ポストモダンとコンテクスチュアリズムはアメリカが発信地であった。アメリカとヨーロッパとは地理的には無論異なる。しかしアメリカの知的シーンの下敷きには常にヨーロッパの文化があり、ヴェンチューリはイタリアの都市を論じてラスベガスを分析し、コンテクスチュアリズムを主導したコーロン・ロウはコーネル大学を拠点としたイギリス人であった。潜在意識のなかで、知性はつねにヨーロッパにある。そして街並みもまた、ヨーロッパの街並みを基本として語られる。長い歴史の蓄積には有無を言わせぬ力がある。

 日本の場合は、普遍と特殊の新たな関係のあり方があるはずであり、異なった道筋もまた、あるはずなのだが。

― パラディオ・アルベルティ・ブルネレスキ

 話を再びヴェネチアに戻してみよう。サン・マルコ広場の対岸にはサン・ジョルジョ・マジョーレ教会とイル・レデントーレ教会が見えている。白いファサードは対岸の街並みに、あたかも鶴が舞い降りたようだ。いずれもアンドレア・パラディオの作品である。

 もともと教会建築はファサードを大切にする。神の世界への門だからだ。パラディオはローマなどの古代建築を研究し、ファサード建築の大家となった。室内も簡素で美しいし、ヴィチェンツァのヴィラ・ロトンダは四方に向かって全てが正面だし、バシリカの空間も素晴らしい。しかし、やはりパラディオの真骨頂はファサードにある。そのファサードデザインの気品と格調が、のちの建築家たちに与えた影響はひとしなみでない。

 パラディオの生きた16世紀は、ヴェネチアはすでに衰退期にあったが、都市の美観を磨き上げる作業は続いていた。経済都市が生き延びるには文化都市に変容を遂げるしかない。パラディオはヴェネチアの街にみごとな画竜点睛を行ったといっていだろう。いわば顔を、代表的な顔を、与えた。

 パラディオは「建築四書」で後世に大きな影響を与えたが、15世紀のアルベルティという先駆者があった。彼の「建築十書」は、ヴィトルヴィウスを下敷きにしながら、本来の、そして未来の建築はかくあるべしという、建築論の有すべき基本的射程を外していない。アルベルティは実作も多く指導したが、代表作の多くがファサードであったことは、彼の建築観をよく表している。アルベルティが尊敬するブルネレスキと比べればその違いは明らかだ。

 ブルネレスキは、実は、ファサードをほとんど実現していない。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂も、天高くそびえるクーポラの建設に偉大な才能を発揮したのであって、ファサードは関係ない。教会全体を設計したサン・ロレンツォ聖堂もサント・スピリト聖堂も、ファサードは未完である。あるいはブルネレスキのデザインではない。ブルネレスキにファサードのデザインができなかったわけではない。ただ、おそらく彼の関心はより建築的な構築や空間にあった。

 一方アルベルティはファサードに全精力を傾注した。年齢はアルベルティが若いのだが、アルベルティこそがルネサンス的な個人としての古典的建築家像を確立した。ファサードという王道に歴史的な根拠とデザインの正当性を与え、パトロンから職人としてではなく建築計画全体の統括者としての立場を認められた。これに対して、ブルネレスキは、技術者であり職人であり、空間の構想者だった。むしろ、いわば近代的な建築家像の走りとなった。アルベルティはファサードをデザインしたのだったが、ブルネレスキは空間を構想したのである。アルベルティは、建築の歴史全体を見渡す眼差しを磨き、ブルネレスキは新しい空間構造と施工方法を考案した。

 ここでヴェンチューリの分類を無理やり当てはめるなら、アルベルティはデコレイティドシェッド派であり、ブルネレスキはダック派だ。パラディオはダック派としても豊かな構想力を示したが、後世への影響という点ではデコレイティドシェッド派に分類してよいだろう。つまり、アルベルティもパラディオも、ヨーロッパ建築史の王道の系譜を継いでいる。書物を書いた、という点においても。

― 普遍と特殊/文明と文化

 とはいえ、いくらわかりやすいからといって、このように安易な分類を当てはめることには抵抗がある。しかし、歴史が振り子であり、普遍と特殊が補完関係にあり、文明と文化がその方向を逆にしているとして、さらには人間が合理を求めながらも非合理な存在であることに思い至れば、ファサード一つとってもこれだけさまざまなアプローチと戦略がありうることはいかにも面白い。

 モダニズムが開いた世界の豊かさはまだ汲み尽くされてはいまい。ポストモダンやコンテクスチュアリズムも含めて、さらにはその後のさまざまな運動や傾向をも含めて、われわれはいまだ、鉄とコンクリートとガラスに都市や社会の要請に応える合理性と、素材としてのポエジーの可能性とを見出すモダニズムの基本姿勢を超えることはできていない。ローカルな素材は魅力的ではあるが、あくまでも特殊として、普遍への補完でしかない。このことが街並みや建築文化への足かせとなっていることも否定はできない。しかし、特殊は特殊である。

 今日の都市の、とりわけアジアの都市の、不連続で未完結な状況のなかにあって、われわれはそれでもそこに、驚きと喜びと輝きと美を見出さねばならないだろう。普遍へのまなざしと特殊への慈しみが共存することは、均質で画一的でノッペラボーの合理的未来への直進を妨げる。未完結で不連続な世界に新たな美学を、そして、合理を貫きながら非合理の、無意識の、喜びを排除せぬ都市空間を構想することは不可能だろうか。

 人間の脳はエラーを犯すことができる。そこが強みだ。ポエジーや驚きや喜びの源泉だ。文化の基層にはさまざまな可能性が埋まっている。文明は便利の追求であり、文化は不便の洗練である。文明という合理と文化という非合理もまた補完的だ。顔がないこと、主語がないことは、一概に否定されるべきではない。顔の見える関係だけでなく、そこはかとない気配に導かれる関係もあってもいいかもしれない。後ろ姿に惹かれる文明があってもいいかもしれない。

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