脱色する空間|竹山聖
われわれは、こうしたマレーヴィチのテクストの読解を通して、20世紀初頭の、すなわちちょうど今から100年ほど前の、清新な精神活動を、その還元作業を、いわば「脱色」という言葉を手掛かりにして辿り直そうとした。
絵画とは対象をうまく写し出すものではなくて、そこに新たな世界を構成する(自然界の姿を原理的なものにまで還元する、ぎりぎりにまで単純化された、形と色面によって)ものだと語るマレーヴィチ。それが「色」という言葉の持つ意味の幅と不思議に響き合っているからである。
「色」はさまざまな意味を持つ。普通には色彩の意味で了解してまちがいない。ただし、たとえば、色がついている、というときのこの言い方には、「色眼鏡を通して物事を見る」といったような、物事を歪めて見るニュアンスがある。つまり「色」が、固定観念、因襲的な考え方を指すのである。
また、仏教でいう「色即是空、空即是色」のように、「色」が「物質」という意味を持つこともある。ちなみに、マレーヴィチのテクストの言う「シュプレマティズムのシステム」やら「色彩絵画の新しい枠組み」は、この「色」に対する「空」のようなものであるようにも思える。仏教哲学において、「空」とは関係のことだからだ。
もとより「色のある世界」とは、美しさや豊かさに満ちた世界の比喩であり、逆に「色のない世界」は無味乾燥で殺風景な世界である、と一般的には了解されている。こうした色のない世界は、マレーヴィチがまさにそうであると批判を受けたdesertの風景であり、実はこれはマレーヴィチが思い入れを持って受け入れた言葉でもある。砂漠desertには純粋な感覚のみが残されるからだ。感覚の他には何もない。純粋なnonobjectivityの支配する場所。経験的対象を喪失した世界。
そもそも「色」は「意味の生成」と密接に結びついており、マレーヴィチが一旦括弧に入れたかったのはそのような意味生成(さまざまな固定観念や因襲に満ちた)であった。彼のおこなったのは、いわば世界の還元作業だ。すなわち脱色作業だ。日本語の「色」という言葉の持つさまざまなニュアンスをも込めて。したがって、マレーヴィチの意図した構想を、あえて「脱色」という言葉に込めてしまっても良いのではないか。
誤訳に触発された面もあるにせよ(誤配の可能性は「郵便的」なものであり、エラーや意味の水平的な移行は、そもそもポエジーの本質であって、それは無意識の層に触れている)、思考の運動、さらには脱線を、ポジティヴに捉えて実り豊かなものとすることもできよう。
むしろ「脱色」をこのように解釈してさらに建築的思考を深めていく事はできないか。あるいはこれは、マレーヴィチの精神の本質を、案外穿った言葉なのかもしれない。
このようにわれわれの読みは重ねられていった。
2017年春に出版された村上春樹の小説『騎士団長殺し』は、「免色(めんしき)」という名の特徴的な人物の登場でも暗示されているように、絵を描くこと(主人公と、その仮住まいの持ち主は、ともに画家である)、とは、いわば根源的な還元作業、脱色作業である、という、さながらジャコメッティのような(もちろんマレーヴィチとはやや方向性が異なるのだが)絵画観の提示があって、「脱色」という言葉の射程を確かめたくなるモチベーションの一つを与えてくれた。
さらにまた遡って、私が初期のリチャード・マイヤーを論じた※5ときに考えていた「形式への還元」、その「意味の消去」を通した建築の原理的な姿の追求のことも思い出されて、「脱色する空間」という言葉に至った。
2017年7月に日本では公開された「ブランカとギター弾き」は、主人公の少女ブランカが、裏切りと疑心暗鬼の支配する混沌と混乱のスラムのなかで出くわすさまざまな出来事や、盲目のギター弾きとの出会いを通して、その猜疑心や貪欲に色づけられていた心が、信頼と愛情によってあらためて染め上げられてゆく、という感動的な場面に満ちた映画であったが、このブランカは「白」だ。少女の名前は「白」を意味する。まっさらな心の可能性を意味する。人間はまっさらな心に還元される時を持つことができる。そしてそのまっさらな状態は善意に満ちた、愛に満ちた状態への予感である、という人間への信頼をも謳いあげている。
「色」をそのメタフォアをも含めて想像力の射程に収め、これを不在と結び、虚の中に置き、「あらずあらず」の論理にさらし、花も紅葉もなかりけりの心境をトレースし、その真只中において脱してゆく作業。こうした作業が求められ、遂行された。
「脱色」は「色」を脱するのであって、固定観念や因襲からの脱出、通常の意味に満ちた色や形からの脱出、ともすれば建築がまといがちな「社会性」からの脱出、政治や経済やビジネスや投機からの脱出をも含んでいる。プログラムやコンテクストという建築の成立与件からも一旦距離を取る。建築という精神的秩序を求める行為の根源を見つめ、無意識をくぐり、パルテノンやパンテオンやハギアソフィアといった、意味や社会性を突き抜けた形式の高みをも見据えつつ、空間の始原へと遡る試みでもあった。
「脱色する空間」とは、「脱色された空間」ではない。つまり他動詞の受動型ではないのであって、空間が脱色されるのでなく、自ずと脱色される、自ら脱色されてゆく、そうした自動詞的な、それ自身が主体であるような空間がここでは問われている。二項対立的に脱色する主体があり脱色される客体がある、というような、あるいは布を染めたり漂白したりする、といったような、対象と行為の乖離があるのでない。その場所で脱色が遂行されていく、そのような空間を、建築という行為を通して構想していけぬか。マレーヴィチが砂漠にその空間の雛形を見たように。宇宙に突き抜けて空色を脱し、内に向かって意識を突き抜け無意識へとダイブしたように。
では、建築を原理的に還元し尽くして、しがらみから解き放したとき、どのような「形」が可能なのだろうか。そこにどのような「新しい理性=直観」が働きだすのだろうか。
5) 竹山聖「形式化の意志と醒めた爽やかな楽観:リチャード・マイヤー論」『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会、1985、pp.138-139。