脱色する空間|竹山聖

直観とは意識的に形態を創りだそうとする新しい理性のことである。
 Intuition is a new reason, consciously creating forms.
 カジミール・マレーヴィチ※1

さあ発進!白い、自由な深みが、永遠が諸君の目の前にある。
 Sail on! The white, free depth, eternity, is before you.
 カジミール・マレーヴィチ※2

シュプレマティズムとは、現実の対象から離れ、純粋な空間へと向かう運動であった。外に向かっては宇宙に、内に向かっては純粋な感覚に。それまでの芸術がそうであったように、対象を描き出すことによる探求でなく、純粋な芸術的感性の至高性に身を任せつつ芸術を志向する態度である。マレーヴィチは1913年に白の上に黒の正方形を描き、1915年にはマニフェストを公にした。ル・コルビュジエがドミノ構想を提出した時期と重なっている。いわば時代をあげて、芸術や建築がその還元作業に向かっていた、と言っていい。
 そしてそれはとりもなおさず、建築があらためてその自律性を問い始めた時代でもあった。すなわち、なにものかに依存して(オーダーであったりスタイルであったり、趣味であったり、もどきであったり)建築の形態が決定されるのでなく、建築には建築の自律的な秩序があるのではないか、という信念に基づく探求作業でもあった。因襲は言うまでもなく他律である。
 芸術においても、描き出される対象の有する物語性や象徴性に寄りかかるのでなく、描きだされる対象から離れ、対象を脱して、いわば他律性を排して、純粋な感覚へと向かう還元作業が進められた。
 夾雑物は取り除かれる。1908年のアドルフ・ロースの言葉、「装飾は罪悪である」に倣うなら「装飾」を、だ。「様式」でなく「装飾」でなく「因襲」でなく「意味」でもない。いらないものは取り除き、純粋な形式に還元する。これ以上取り除くことのできないほど純粋な状態に、芸術を、建築を、還元する。
 このとき、物知り顔の、理屈っぽい、手垢にまみれた論理を弄ぶ理性でなく、直観が手掛かりとなる。それは思いつきの直観でなく、新しい理性ともいうべき、意識、身体の底を流れるはずの、新しい秩序の源泉である。これがマレーヴィチの「直観」であった。
 歴史を振り返ってみれば、近代建築の課題は、意味(装飾/様式)からの脱却、すなわち形式への還元であった。そして、それは芸術のすべての分野に共通した課題でもあった。デスティル、ロシアコンストラクティヴィズム、キュビズム、シュールレアリズムを通じてこの関心は分け持たれ、音楽では物語豊かな標題音楽から離れて12音階による無調音楽に至る流れを生み、絵画では抽象絵画を生んだ。それは因襲的な価値観からの徹底的な離反であった。意味を消すこと。純粋な感覚の流れを抽出すること。そこに新たな価値を、そして秩序を見出すこと。
 マレーヴィチのこうした試みの底を流れる態度、そしてその先に現れる空間を、われわれは「脱色する空間」と名づけた。それは何故か。
 マレーヴィチはもとより色を否定しようと考えてはいない。むしろ色を徹底的につきつめようとした。セザンヌが対象を徐々に脱し、解体して、画面を色の饗宴とした功績を、20世紀の画家たちは明晰に感じ取っていた。絵画は物語でなく、画面であり、そこに展開される色面の構成である。色によって奏でられる音楽である。

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 「私にとって明らかなことは、色彩の要求にしたがって構築される純粋な色彩絵画の新しい枠組みが作り出される必要があるということであり、また第二に、色彩それ自体も絵画的混沌状態を脱して独立した単位に、すなわち集合的体系(システム)の一部分たり、かつそれ自体独立した部分たる構造(コンストラクション)へと、進化してゆくべきだということである。It became clear to me that new frameworks of

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pure color painting should be created that would be constructed according to the needs of color; second, that color in its turn should proceed from a painterly confusion into an independent unit – into construction as an individual part of a collective system and as an individual part per se.」※3(傍点は筆者による)
つまり、マレーヴィチは決して色を否定しているわけでなく、むしろその関心の中心には「純粋な色彩絵画の新しい枠組み」がある。感性に支えられたシステムが、コンストラクションが、ある。
 そして彼はこう続ける。
 「空の青はシュプレマティズムのシステムによって征服され、漂白され、本当の永遠の概念を示す超越的な白へと移行してゆき、そうして空色の背景から解放されたのである。The blue of the sky has been

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conquered by the suprematist system, has been breached, and has passed into the white beyond as the true, real conception of eternity, and has therefore been liberated from the sky’s colored background.」 ※4(傍点は筆者による)

 この「漂白され」という言葉のロシア語は定かではないが、英訳ではbreachであり、bleach(漂白する)ではない。それは囲みを破ることであり、突破することであり、限界を超えることである。つまりここではおそらくちょっとした誤訳が行われているのであるが、それが新しい想像力をかきたてもする、という不思議な効果をもたらしている、とわれわれは読んだ。
 それは「漂白」でなく「脱色」と読むべきではないか、と。
 漂白と脱色は違う。著しく違う。漂白は白くすることであるが、脱色は色を抜け出ていくことだ。では色とは何か。

1) J.E.ボウルト編著『ロシア・アヴァンギャルド芸術』川端香男里、望月哲男、西中村浩訳、岩波書店、1988、p.169。Russian Art of the Avant-Garde: Theory and Criticism 1902-1934, Edited and Translated by John E. Bowlt, The Viking Press New York, 1976, p.132.

2) J.E.ボウルト編著、前掲書、P.182。

3) J.E.ボウルト編著、前掲書、P.181。John E. Bowlt, ibid. , p.144.

4) J.E.ボウルト編著、前掲書、p.181。John E. Bowlt, ibid. , p.144.

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