津波ゲーティッド・コミュニティー|牧紀男

― 津波と共に生きる

東北地方三陸沿岸は、明治三陸津波災害(1896)、昭和三陸津波災害(1933)、チリ地震津波災害(1960)とほぼ30 ~ 50 年に一度の割合で津波に襲われている。東日本大震災で被災した人の中にはチリ地震津波を、数は少ないが昭和三陸津波も経験した人も存在する。津波の被害を受けた集落では、これまでも災害のたびに高台への集落移転が行われてきた。昭和三陸津波では死者4,007 人(宮城県471 人・岩手県3,536 人)、流出倒壊:宮城県4,453 棟、岩手県4,932 戸という大きな被害が発生し、宮城県15 町村・60 集落、岩手県20 町村・42 集落で復興事業が実施された1)。東日本大震災の復興と同様、都市部と漁業集落で復興対策が異なり、都市部では防潮堤の建設・遠浅海岸の埋め立て・市街地のかさ上げ等の対策を講じた上で現地での再建、漁業集落では高台移転が行われた。


 防潮堤を建設し、現地で再建した地域としては田老町(現宮古市田老)がある。昭和三陸津波の復興事業では当初高台移転も検討されたが、まちの規模が大きかったため移転先を見つけることが難しく、防潮堤を建設し現地で再建されることとなった。関東大震災の復興事業に関わった技術者も招聘し、津波の波力を受け流す三日月形の高さ10m 以上・全長1,350m 防潮堤(図1)が計画される。防潮堤の建設は1 年後の1934 年から開始されるが、戦争により中断があり、津波から25 年後の1958 年にようやく完成する2)。1960 年のチリ地震では、津波の規模も小さく、防潮堤が建設されたこともあり田老では大きな被害が発生しなかった。チリ地震後、防潮堤の外側にさらに堤防が建設され、昭和の防潮堤の外側にも市街地が拡大する。田老町は昭和三陸地震の70 周年を記念し「津波防災のまち」宣言を行い防災先進地域として有名であったが、東日本大震災では壊滅的な被害を受けた(写真3)。

図1 田老町の復興計画(内務大臣官房都市計画課、1934)


写真3 岩手県宮古市田老地区の被害

 一方、漁村集落では高台移転が行われ、過去の津波より高い位置に新たに集落が建設された。集落建設にあたっては復興計画で、役場・学校・警察・社寺等公共施設は移転地の中の最も高い場所に建設する、移転地の中心には広場を設置しそのまわりに集会所・共同浴場、全戸移転しない集落については、将来的に移転しない世帯も収容できる規模で高台の移転地を計画する、海に近い場所は非住家建築ならびに網干場等として利用する、といった方針3)が示される。岩手県大槌町吉里吉里地区では、高台に広場を中心とし、共同浴場・診療所・消防屯所・託兒所・青年道場を設ける「理想村」の建設が行われた4)。吉里吉里の移転地は東日本大震災で壊滅的な被害を受けたが、昭和三陸地震の復興で建設された高台の移転地の多くは東日本大震災で被害を受けなかった5)

 昭和三陸津波後の高台移転地には、現在も「集団地」(宮城県石巻市北上町相川地区)、「復興地」(岩手県大船渡市綾里地区)といった高台移転したことを示す地名が残されている。高台移転地と低地の境に桜を植え昭和三陸津波の記憶を継承している地域も存在する(岩手県釜石市唐丹本郷(写真4))。東日本大震災の復興では事業完了までに7 年以上かかっているが、昭和三陸津波の復興事業の完了は早く、移転地の造成は1 年で完了している。しかし、戦後、外地からの引き揚げ者等により人口が増加し、多くの集落で海岸に近い低地へと集落が拡大する。
 1960 年に発生したチリ地震津波では岩手県を中心に死者・行方不明62 名、家屋流出2,171 戸という大きな被害が発生する。チリ地震津波で最も大きな被害を受けたのは岩手県の大船渡市である。一方、昭和の復興で防波施設の作られた田老町等は被害も少なかった6)ことから、チリ復興事業として防潮堤の建設が行われることとなる。

写真4 唐丹本郷の桜並木


1) 内務大臣官房都市計画課, 三陸津波に因る被害都町村の復興計画報告書, 内務大臣官房都市計画課,1934.
2) 高山文彦,『大津波を生きる―巨大防潮堤と田老百年のいとなみ』, 新潮社,2012.
3) 内務大臣官房都市計画課,1934.
4) 岡村健太郎,「三陸津波」と集落再編,鹿島出版会,2017.
5) 牧紀男, 明治・昭和三陸津波後の高台移転集落における東日本大震災の被害, 地域安全学会梗概集,pp.109-112,No.30,2012.
6) 岩手県, チリ地震津波災害復興誌,1969.

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