オーバーアマガウの受難劇|山岸常人

 ドイツのバイエルン州南部にあるオーバーアマガウ(図1)という小さな村は、十年ごとにキリスト受難劇が上演されることでよく知られている。建築に興味がある人間にとっては、外壁にフレスコ画の描かれた民家(図2)のほうが知られているかもしれない註1。しかし私の関心は受難劇にある。

図1 ドイツ バイエルン州 オーバーアマガウ

 この受難劇は村人たちだけの手で上演される。その起源は1634 年であり、ペストの流行に苦慮した村人が、その疫病から救われることと引き換えに、受難劇を十年ごとに演ずることを神に誓い、疫病流行が収束して始められた。劇の演出、出演者・合唱・オーケストラ、運営など、上演のすべてが村人によって担われており、民衆劇というべきものである。現在は五月から九月初めまで、約百回の公演が行われ、午後から始まる上演は、夕食時間の休憩を挟んで深夜に及ぶ長丁場である。これを鑑賞するため、世界中から人が集まり、期間中はツアー客を乗せた観光バスがあふれかえる。筆者は日本中世史家の上島享氏(現京都大学文学研究科教授)とともに、2010 年の公演を見る機会を得た。以下はその後の私の頭に去来する妄想の断片である。

図2 オーバーアマガウのフレスコ画のある民家

 1634 年に始められた際のオーバーアマガウ受難劇の台本は、マイスタージンガーやアウグスブルクの聖職者の作成した劇台本を参照して作られたようであるが、その後、幾度も改変された。特に十八世紀中期・十九世紀前期は、オーバーアマガウ近郊にあるエッタール修道院の神父が台本を作成し、これが現行の劇の形式の基礎となっている。その後、現代になってからも、台本の反ユダヤ的な表現について変更がなされたりもしている。

図3 オーバーアマガウ受難劇の劇場

 そもそもヨーロッパにおける受難劇・聖史劇などの宗教劇は十世紀に始まるとされている。それは宗教儀式の一部として教会の中で始められ、聖職者によって演じられていたものである。時代が降るにつれて複雑化し、舞台装置が整備されてゆき、登場人物にも芸人や市民が加わるようになった。演じられる場所も教会の外、さらには都市の広場へと変化し、世俗的な娯楽の意味も増していった。中世の宗教劇は宗教改革によって変質した。しかし十八世紀中期までは、南ドイツの都市や村では、受難劇が広く上演されていた。バイエルンでは1770 年に禁制が出されて、その多くが廃れた。その中で、オーバーアマガウ受難劇が生き残ったのは、時代に応じて積極的な改変を試みたからである。オーバーアマガウ受難劇は中世の宗教劇の基盤の上に立ちながらも、大きく近代的な要素を取り込んだものである。にもかかわらず日本の近世以前の建築史・宗教史を学ぶ筆者がここに注目したのは以下のような観点からである。

 筆者は日本の中世仏堂について、法会、つまり宗教儀式に注目して、その内部空間の構成の意味を追求してきた。特に東大寺二月堂修二会(俗にお水取りと呼ばれる)に注目し、これを手掛かりに、仏堂空間の特質や役割を、そこで行われる法要やそれに関わる僧侶集団と関連づけて理解しようとした。修二会は奈良時代に創始されたものであるが、変化なく継承されてきたわけではない。しかし記録を参照すれば、それは変容しながらも、古い伝統を引き継いでいることが知られる。 では、ヨーロッパの教会建築の空間はキリスト教の儀式とどう関係していたのか。また教会建築空間と儀式との関係は、日本の寺院建築の見方にどのような示唆を与えるのか。そのような意識から、著名なオーバーアマガウ受難劇が手掛かりになるのではと想定し、実際に見る事を長年望んでいたのであった。また実見を機会に多少の文献を調べてみた。もちろんJ.S. バッハやH. シュッツの至高の受難曲との関連も気になるところであった。

1​)太田邦夫『ヨーロッパの木造建築』(駸々堂出版 平成四年)等に紹介されている。

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