試論―タイムズ・スクエア、エロティシズム|平野利樹
「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」
(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』*10)
京都大学在学時は高松伸先生に師事した。
「Simplicity」と「Articulation」。僕が高松先生からその過程で教わったことはこの二つに集約される。「Simplicity」は、複雑な建築の要件を如何にシンプルなヒエラルキーで、しかも最小限の要素で解くか。そして「Articulation」は、それらの要素を如何にクリアに分節することができるか。一回生の時に取り組んだミースのバルセロナ・パヴィリオンのトレース課題からこれをひたすら叩きこまれた。この二つの教えが導く先は「透明な建築」だといえる。つまり、すべての事物が光によって照らし出され、それぞれが明確な形態・機能を持つような建築である。一方で、そのような光に照らし出されない、暗闇に埋もれ明確な形態を判別できず、またそれぞれの形態の境界も定かではない、しかしそこには確かに形があるような建築―「不透明な建築」といえるだろうか―を考えるようになった。そのきっかけとなったのが、この挑発的な宣言からはじまるバタイユのエロティシズムの思想である。
バタイユは、我々はそれぞれが孤立した存在であり「一個の存在と他の存在のあいだには深淵があり、不連続性がある」*11 とした。そして、エロティシズムとは、それら不連続な存在が連続性を求め、存在間に横たわる深淵の底、つまり完全なる連続性である死に漸近することであると主張した。つまりエロティシズムとは不連続性と連続性、生と死、そのような境界が溶解した、ある種の不定形な状態に自らの存在を移行することであるといえる。
そのような建築、つまりエロティシズムの建築があるとするならば、それは単体の建築という不連続な存在でありながらも、都市に溶出されるようなものになるのではないかという予感があった。しかし、エロティシズムの建築とは一体どのようなものなのだろうか。
少し寄り道をしたい。
2012 年に二年間の修士課程を終えた。その後大学のスタジオで指導を受け、夏休みにはインターンもさせてもらったジェシー・ライザーと梅本奈々子さんのオフィスであるライザー・ウメモトで働き始めた。オフィスはセントラルパークの南東の角にほど近いエリアの、高層ビルが建ち並ぶ間で一つ窮屈そうに建つ小さな雑居ビルの中にあった。せまく急で、一段ごとにギシギシと音をたてる階段を息を切らせながら最上階の四階まで上がり社名の書かれたプレートの付いたモスグリーンのドアを開けると、窓際のデスクに大柄なジェシーと小柄な奈々子さんの後ろ姿が並んでいるのがまず目に入る。受付もない。そんな小さなオフィスだったが、アットホームな雰囲気で、進行中のプロジェクトはどれも刺激的だった。中でも印象に残っていて、二人の人柄や思想、そして事務所の雰囲気を凝縮していたのが、二人のスペース脇の壁一面に取り付けられた棚だった。そこには絵はがき、作りかけの鉄道模型、砂浜で拾った珊瑚、無数の穴があいた流木などと、それらの品々と一見すると見分けがつかない過去のプロジェクトの模型が見境なく並べられていたfig16。
ところで、仕事が休みの週末はメトロポリタン美術館に通った。古代文明から近代芸術まで、古今東西のありとあらゆる美術品が網羅されたこの美術館で、日がな一日、特に目的も定めず散策し、目に留まった作品から思考を自由に羽ばたかせた。そこで二枚の絵に出会った。ジョン・ホワイト・アレクサンダー「Repose」fig17 と、ジェームス・ローゼンクイスト「Flowers, Fish, and Females」fig18 である。1895 年に描かれたアメリカ印象派と1984 年のポップアートという、時代も様式も異なるこの二枚の絵をここで取り上げるのは、先述したバタイユのエロティシズムをもとに読み込んでみることで一つの共通性が浮かび上がってくるからである。そしてそれを糸口として、建築においてのエロティシズムを考えてみたい。
アレクサンダーの「Repose」では、白地に黒のラインが入ったドレスに身を包みソファに身を委ねた女が、物憂げで、そしてどこか扇情的な視線をこちらに投げかけている。注目したいのが身体と衣服の関係性である。まず上半身では身体のラインにドレスが沿っていて、胸のふくらみや腰のカーブがはっきりと読み取れる。しかし下部に移るに従って徐々にドレスは身体への従属から離れ、それ自身の意志によって広がってゆく。さらにドレスの裾付近ではシワは陰影から一本の線となり、服という立体から平面性へ移行している。そしてこの二段階の移行をドレスの黒のラインが横断することによって増幅している。ここでは身体―衣服、立体性―平面性という要素、状態がそれぞれ独立した系を持ちながらも、連続性に向って溶解し、半自律的な存在として、それぞれ単独ではなし得ない、総体としての効果を獲得している。つまりここに描かれているのは確かに最初に述べた通りソファに寝そべる女であるのだが、同時にそれとは全く異質の、曖昧で移ろいゆく不定形性を持ちはじめており、それが観る者を惹きつけている。ローゼンクイストの「Flowers,Fish, and Females」では、タイトルの通り、花、魚、そして女の顔が一緒くたにシュレッダーで裁断され再構成されたような表現によって、「Repose」と同様、それぞれの要素の判別性は最低限確保されながらも総体としての効果を獲得している。また縦2 メートル横7メートルという巨大なサイズは全体を俯瞰することを困難にし、その効果を増幅させている。
二枚の絵の解釈から見出されたのは、画面における複数の要素の自律性の度合いという観点である。さて、ここから近代以降の建築を辿ってみよう。
コルビュジエの「メゾン・ドミノ」は、機能、構造の観点から建築をスラブ、柱、階段などの自律的な要素に分類している。そしてモダニズムの建築自体の自律性の希求を批判したのが、ヴェンチューリのダック―デコレイテッド・シェッド論であったが、そのデコレイテッド・シェッドも広告と建築という自律的な要素で構成されていたことはすでに述べた。
グレッグ・リンがゲストエディターとして編集に携わり『Folding in Architecture』というタイトルで発行された1993 年のArchitectural Design 誌の特集号に掲載された、自身によるエッセーである「Architectural Curvilinearity: the Folded, the Pliant, and the Supple」*12 はそのような要素の自律性を批判した理論である。ここでリンは、ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』や、マーク・ウィグリーによる脱構築主義の建築理論を、互いに異質で自律的なオブジェクトが衝突する形態システムであると指摘し*13、それに対して「しなやかさ(Pliancy)」のある建築を提唱した。このしなやかな建築とは、敷地などの外部環境に合わせて建築内部の要素が変質するようなシステムである。この特集号にはリンがセレクトしたしなやかな建築の事例が紹介されていて、その中の一つの、リン自身の作品である「Stranded Sears Tower」は、チューブの束が敷地の形状に合わせてほどけたり、曲げられたりしているfig19。ここで、それぞれの要素は外的要因によって決定されているが、一方で建築を構成する要素は断面形状が一定の紐状のチューブのみである。つまり、自律性から解放されている一方で、要素は均質化している。
リンの理論を発展させたスタン・アレンの「Field Conditions」*14では、コンピュータ上での鳥の群れの飛行シミュレーションfig20 や、アメリカの戦後のミニマリズム・アートなどを例に、場(フィールド)の様態(コンディション)によって、群として要素の配置が決定される建築システムの、都市的なスケールでの展開について論じている*15。ここでは要素は粒子として扱われており、その均質化がさらに進んでいるといえる。
均質化した粒子は、現実世界に存在する以上、必ず幅や高さ、厚みがあり、スケールをもたざるをえない。つまり、たとえ都市スケールで各要素が点であっても、それは実体として建築的なスケールで立ち現れてくる。そしてその要素は単一の要素で構成されている。結果的に都市スケールでは自律性から解放されていたとしても建築単体は自律的な要素のままなのである*16。アレンが例として挙げるコルビュジエの「ヴェネチアの病院案」では、病室ユニットが連結されて全体を構成しているfig21。彼が主張するようにその全体形は幾何学的な構成( 自律性) からは逃れているが、それを形作る一つ一つのユニット自体は28 床のベッドを収容するそれ自身で完結した、自律的でまた均質な要素なのである。
一方、「Repose」における身体と衣服、「Flowers, Fish, and Females」の花と魚と女は、それぞれ独立した要素でありながらも、半自律的な存在として連続性に向って溶解することで、それぞれ単独ではなし得ない、総体としての効果を画面が獲得している。そしてこの総体としての効果とは、それらの絵の画面が、そこに描かれた対象を離れて持ちはじめる、曖昧で移ろいゆく不定形性である。
自律的で均質な要素によってではなく、連続性に向って溶解する半自律的な要素による建築。そのような建築をエロティシズムの建築として定義したい。