試論―タイムズ・スクエア、エロティシズム|平野利樹
今我々は資本主義社会の中に生きている。そこでは建築の商品価値は第一に床面積で決定される。つまり床が大きければ大きいほど、多くのテナントを入居させることができ、結果より多くの収益を得られることになる。
コルビュジエの「メゾン・ドミノ」fig7 で、外皮は構造とは無関係の要素として描写されず、その他の柱や階段などの要素もスラブを支える上で必要最小限に抑えられていることからも分かるように、近代以降の建築原理においては建築を構成する要素の中で床がヒエラルキーの頂点に立っている。レム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』*6 は、その原理がニューヨークの加速する資本主義によってオーバードライブされるプロセスを鮮やかに描き出している。敷地の形状をそのまま床としてそれを任意の階数分積層する「敷地の上方拡大」の開発と、階数の上限を無効にするエレベーターの発明。そしてそれが生み出す「過密の文化」。
話をタイムズ・スクエアに戻そう。現在平均的なマンハッタンのオフィスの賃料が1 平方フィートあたり月54 ドルであるのに対して、タイムズ・スクエアでの屋外広告料は70-130 ドルとなっている。つまり、建築の商品価値が床面積ではなく、屋外広告の設置される外皮の表面積によって決定されているのだ。そしてその屋外広告料とオフィス賃料が逆転してしまった関係によって、ワン・タイムズスクエアでの広告スペースによる収入は全ての階にテナントが入居した場合のそれを上回っており、結果的にタワーは不動産商品として成立してしまっているfig8。
ワン・タイムズスクエアは近代以降、経済原理に並走していたはずの建築原理が、資本主義そのものの更なるオーバードライブによっていつの間にか歪みを抱えこんでしまった状況の象徴といえるだろう。そして、光り輝く煌びやかな表皮に身を包みつつも、そんな矛盾を人知れず孕んだその姿はどこか孤独に見えるのだ。
建築はタイムズ・スクエアを「無視」してきた、と最初に述べた。実はその問題に取り組んだ建築家がいる。ロバート・ヴェンチューリとデニス・スコット・ブラウンである。彼らはまさにタイムズ・スクエアの中心に観光センターの提案をしているfig9。これはニューヨークの愛称でもある「ビッグ・アップル(巨大な林檎)」のハリボテを、シンプル極まりない(彼らの言葉をかりるなら「陳腐な」)ボックスの建物に載せただけのデザインである。これには彼らが提唱した「デコレイテッド・シェッド」がある意味あからさまな形で表れている。
彼らは建築と広告の関係性から、モダニズムが捨象した(とした)建築における表象の問題に取り組んだ。ここで彼らは建築を二つのタイプに分類する*7。ダック(アヒル)とデコレイテッド・シェッド(装飾された小屋)であるfig10。ダックは広告のもつ表象性を従来の建築のフレームに無理矢理はめこむことによって生まれる。一方デコレイテッド・シェッドでは表象性は看板などの要素が担保し、建築は要求された機能性を満たすだけで良いとした。彼らは当時アメリカで主流を握っていたポール・ルドルフを始めとする後期モダニズムが、機能主義、合理主義を謳いながらも隠れてその機能性と合理性を機械やテクノロジーの表象によって担保させている実態を、アヒルというカテゴリにまとめ上げて攻撃し、そして建築が表象の問題に表立って取り組むべきことを主張したのである。
しかし、ここで彼らが提唱したデコレイテッド・シェッドは真っ向から表象の問題に組していたといえるのだろうか。実は彼らは見事な包丁さばきで表象性を建築本体から綺麗に切り離したのだとは考えられないだろうか。これについて隈研吾は、デコレイテッド・シェッドが「建築の世界の内部( 本体) と外部( 看板) とを類別し、それを弁証法的に統合する」という方法によって「建築本体の保守的なあり方は守られたかに見える」が、現代においては「内部と外部という類別がすでに意味を持たず」もはや時代錯誤であると指摘している*8。つまりデコレイテッド・シェッドにおいて、建築と広告はお互いに自律的に過ぎるのではないか、と。
タイムズ・スクエアの看板を横から見ると、どれも建築物からわずかな隙間によって切り離されて設置されていることがわかる。つまりここではデコレイテッド・シェッドが全てを支配しているのだ。そしてタイムズ・スクエアに立つと、そこから見えるのは看板だけである。つまり、ここには従来の意味での建築が存在しない。だからこそ、タイムズ・スクエアは建築の側から語られてこなかったのではないだろうか。
そして、この建築と表象の問題もまた、ワン・タイムズスクエアに帰結することとなる。表象( 看板) のみで成立する中、建築( プログラム) はもはや必要ではないのだ、と。隈はこのように問いかける。
「すべてが建築という現象の内部でもあり、外部でもある。すべてはとうの昔に許さ
れている。その徹底的自由の中で、なにが可能か」*9(隈研吾『負ける建築』)
建築の外皮と床の価値が逆転した状況において、床面積を最大化させるかではなく、外皮から考えた建築原理のあり方とは。そしてデコレイテッド・シェッドとダックのような二項対立から逃れた、外皮としての広告と建築の関係性とは。プリンストンでの修士設計「Times Square Re-imagined」は、このようなテーマへの自分なりの解答だった。
まずタイムズ・スクエアにおいてより高い利益が得られる屋外広告面としての建築外皮の表面積を如何に増大させるかを焦点に、建築の基本形態が決定された。単純な箱状のヴォリュームにおける表面積を100% として、ヴォリュームを細分化することにより表面積を増大させてゆく。しかし、細分化した複数のヴォリュームのうち内側にあるものの表面は、外側にあるヴォリュームに比べ、視認性が低くなる。またタイムズ・スクエアで屋外広告に向けられる視線は主に地表レベルからなので、広告面が地表に対して直立する場合、広告の上方は下部に比べ、図像の視認性が下がる。そこで、各ヴォリュームの下部を細くすることにより、建築のフットプリント内の地表面は街路の延長として自由にアクセスできるようにし、また広告面を地表に対して傾斜させることで、内側や上部の広告面の視認性を確保するfig11。この結果、いくつもの脚を持つような形態がうまれた。「Times Square Re-imagined」はメディウム( 素材) のプロパティ( 特性) と形態の関係性の試行でもある。この場合のメディウムは外皮全体を覆うLED であり、そこに映し出される映像である。
タイムズ・スクエア内の広告は今までは印刷されたものや、ネオンサインや電飾であったりしたのだが、今や急激なスピードでLED のディスプレイに取り替えられている。看板を塗るインクと様々な色に変化し発光するディスプレイのLED は、異なる素材として当然それぞれの特性も大きく異なる。しかし看板から取り替えられたディスプレイは、以前の看板と同じ四角の平面形にはめ込まれたままである。はたしてLED がもつ特性は、四角の平面という形態で十分に発揮されているといえるのだろうか。
従来の広告はそれぞれについて適切な視点距離が設定されている。例えば電車の中吊り広告だと、車内の座席に座っている時の目から広告までの距離を考慮して文字のサイズなどが決められている。これをそのまま街の大通りに貼ると、通行人と広告との距離は平均して車内の時よりも格段に大きいため広告の情報は認識されなくなってしまうだろう。逆の場合だと、ビルの屋上に設置されたコカコーラの看板を1 メートル離れた場所に立って見ても、視界は赤一色で何がそこに表示されているのか分からないだろう。この視点距離はそのメディアの持つ情報量とも関係性を持っている。中吊り広告の持つ情報量は必ずしもビルの屋上看板では効果的ではないという具合に。「Times Square Re-imagined」の外皮全体を覆うLED の密度(解像度)はこの視点距離で決定されている。視点と広告面との距離が大きい建築上部はLED の解像度は粗く、そして表示面積は大きく平面的であるが、下部に向うにしたがって解像度は徐々に高くなり、そして表示面積は小さく凹凸のある形態になる。これによって一つの連続した表面が無数の焦点を持ち、視点の移動にあわせて様々な情報を伝達するfig13。例えば下着ブランドのヴィクトリアズ・シークレットが全面を使って広告を展開すれば、上部ではブランドを象徴するロゴやイメージが浮遊し通行人の注意を惹き、近づくにつれて徐々に下部に映し出されるセール情報やモデルの着用イメージに視線が移り、さらにそれぞれの脚の下層部にはブラやパンティなどの商品のより詳細な情報が表示されるだろう。そして幾本もの脚に枝分かれした下層部では、一つの広告が複数の脚にまたがって見る者を包み込むような空間的な広告の展開が可能となるfig14。