建築家/アタカケンタロウ | 建築から自由になること
― イムラアートギャラリー
玉井 イムラアートギャラリーでの展覧会についてお話を聞かせていただけますか。
アタカ イムラアートギャラリーは京都のギャラリーなのですが、東京の「アーツ千代田3331」という場所で今年の5月から新しいギャラリーをオープンさせることになったんですね。3331は中学校の廃校になった校舎を改修して、そこに現代アートのギャラリーや、カフェとかイベントスペースが入っている新しい形の文化センターなんです。そのうちの1つの教室を新たにイムラアートギャラリーが借りることになったんですけど、既に中学校の教室を何度かギャラリーとして改修した場所で、そこをさらにもう一度我々がギャラリーに改修するということでした。ただちょっと変わっていたのは、普通に内装をデザインして、綺麗なギャラリーをつくってほしいというだけじゃなくて、アーティストの土屋貴哉さんと一緒に、この改修プロジェクト自体が何か展覧会としても見せられるような面白いことをやってくれという依頼だったんです。僕のスタンスとしてはアートであるとか展覧会になるということはもちろん頭にはありつつ、でもむしろ淡々と通常の仕事としてギャラリーの内装に取り組むという方が、土屋さんとの関係としても面白いんじゃないかと思っていました。出来るだけ前のギャラリーのプランや仕上げを活かしつつ最小限の介入で井村さんの要求も満たした新しい空間に生まれ変わらせようと考えていました。京都のイムラアートギャラリーは道路に面してガラス張りで、中の展示が外から全部見えちゃって、それで見たことにしちゃうという人も多いので、東京のギャラリーは全面壁にしてしまって、中に入らないと何もわからないようにしたいという話も最初はあったんです。でも全体を管理している3331 側からは、廊下からいろんな活動が見えるということを施設として重視していて、それによって活気も生まれるので壁で閉じるのはNGですと言われました。それでどうしようかということになって最初にお見せしたルーバーの案があったと思うんですが、あの原理で解決してみようと思い立って提案をしました。大学院を出て実に12 年経ってはじめて実作になることになったんです。
アタカ これは例の補助線を全部描いている図面なんですけど(図3)、階段から上がってきて、廊下を歩きながらギャラリーの中を見ようとすると、スタッフが働く大きなテーブルのあるワークスペースだけが切り取られて見えるようになっています(写真17)。ギャラリーの中の活動が全部見えているようで、実は作品は一切見せない、というふうになっています。ただそれだと本当に何も展示のことが分からなくなってしまうので、廊下の半分から先を越えると、徐々に視界が開いていって、正面の壁だけは見せて、最後は徐々にワークスペースのほうから視界が閉じていってフェイドアウトして終わる、というようなシークエンスになっています。
― 『昨日はどこへいった。』展
アタカ 展覧会の方は「昨日はどこへいった。」という題名です。いわゆる絵を描いたり、彫刻をつくったりするんではなくて、中学校時代から積み重ねられてきた時間や痕跡、ギャラリーをつくってオープンの準備をしていくこと自体を素材にして作品化していくことを考えました。それで一か月半くらい現場に通って、ほとんど自分たちで壁を解体したり新しい壁をつくったり、塗装をしたりという内装の工事をやることにしました。その作業をしている間ずっと真ん中に三脚を立てて、ちょっと作業をしてはカメラを15度ずつ回転させながら360度撮影するというのを続けて、それを合成して長い画像データをつくりました。それを展覧会のときに教室の真ん中に「1分間に1回転すジェクター」を設置して、撮影したのと同じ壁面に原寸になるように映像を投影し続ける、ということをやりました。だから回転するたびに壁が解体されたり、新たにつくられたり、色が塗られたりといった感じで、今ある場所に昔の時間が重なるように再現されていくというふうになっています。これは土屋さんの作品で、原寸サイズの床の画像が延々とスクロールし続けるという作品です(写真18)。教室の床材を一枚一枚撮影してそれをつなげて、教室と同じサイズの画像データをつくっています。この画像データが1秒間に1回ランダムなスピードでスクロールし続けていくという作品です。これを撮影した後で床の全面に一度サンダーをかけているので、映像で見えている以前のギャラリーとか中学校時代の痕跡は実際には、はぎ取られています。だから、はぎ取った薄皮一枚が電子データに置き換えられて、床の上を滑り続けているというふうにも見えます。大きいテーブルとか棚とか照明は僕がデザインしたものです(写真19)。
アタカ スタッフが閉じた部屋で仕事をするんじゃなくて、大きいテーブルでオープンに仕事をしながら、訪れたお客さんの接客もさせたいという井村さんのオーダーがあったので、ギャラリーの一角の壁を切り取って、そこに日常業務をする場所をつくることにしました。非日常的な展示スペースに、ギャラリーにおいての日常性をもったワークスペースが自然と入り込んでいることが大事だという思いもありました。このあたりの仕上げについてはコンクリートに見えますが、実は天井に露出していた既存建物の躯体のコンクリートを参照して土屋さんがスーパーリアルにコンクリートの絵を描いたというもので、これは絵画作品でもある、ということになっています。土屋さんは藝大の油絵科を出た作家なのですが、在学中に絵を三枚しか描いていなくて、藝大を出てからも絵を1枚も描いていなくて絵の道具すら持っていないという人なんです。でも実は絵が超絶上手いという噂だけが流れていました。それで今回の僕の裏テーマで土屋さんに絵を描かせようと思っていたこともあって、天井のコンクリートをモチーフにして絵を描こうと言ったら描くんじゃないかと思って提案したら、すっごく喜んで描いてくれてました(笑)。ちょっと写真じゃ伝わらないんですが、触ってもわからないくらいリアルなんです。本当に超絶上手かったです。これはテーブルの天板を真上から見ている写真(写真20)なんですけど、テーブルを先に制作して、土屋さんの指導の下、7人の男女が星に見立てた碁石を動かし続けています。それをテーブルの上に仕掛けたカメラで撮影して、パブリックアートのプロジェクトでも出てきたレンチキュラーシートに印刷しました。通りがかると碁石を動かしている手の動きが一瞬見える。昔起こったことをその場所に定着させる作品をつくろうというものです。他にもいろいろやっていますが、ざっとこんな内容の展覧会でした。
玉井 アーティストの方と共同で仕事をするということで心がけたことはありましたか。
アタカ 土屋さんとは回転するプロジェクターの話とかも含めてできるだけ2人で一緒に決めるようにしていました。アイディアはそれぞれ考えるんだけど、それを持ち寄って飲み屋でしゃべりながら、相手が出してきたものを展開してみたり、自分の案を乗せていったりしているうちに、どっちが出したアイディアかわからない感じになっていくっていう状態を目指していました。最終的な判断としては、たとえば長いタイムスパン、ここでいうとギャラリーとして使い続けることに対しての判断は僕がして、展覧会として成立するか、価値を持つかという短いタイムスパンについての最終判断は土屋さんがするというふうに暗黙の了解というか、自然とそうなっていましたね。お互いの専門分野に関してはそっちの判断が正しいだろうなと尊重し合っていた感じで、驚くほどスムーズに進みました。僕はアートの文脈でどう見られるかということは判断できないと思っていたから、展覧会として成立するかどうかとかアートとしてどう読まれるかといったことは土屋さんにおまかせして、何かやるにしても背景になるように、地になるものだけをやる。そのほうがいいなと思っていました。表のルーバーもアイディアとしては結構強くて存在感としても、かなり決定的な存在だけど、でも観客とアートの間に立ち入らないで、その関係は保存したままその風景をどう切り取るかということだけをやっていますし、そこで見えているもの自体は僕がつくっているわけじゃない。フレーミングの仕方とか背景とか地になるものだけを扱ってなおかつ強い表現をするっていう、そういうことが両立するポジションをちゃんととろうと思っていまいした。でも土屋さんも図になるようなことはあんまりしていなくて、背景とか地になるものをどう扱うかを考えていたように思います。もともと日常的なありふれたものに少し介入して作品化するという作家だから、普段の作品との連続性もあったんだと思います。結果的に2人でギャラリーがオープンするための作業をコツコツやっていて、作品らしいものはないのに展覧会になっちゃっているという状態が面白かったなと思っています。
― 遠野でのプロジェクト
アタカ 5年ぐらい前から、岩手県遠野市にあるクイーンズメドウ・カントリーハウスというところで、馬付き住宅プロジェクトというものに関わっています。今からお話するのは僕の計画というよりも、そういう活動の紹介と僕が今からここで何をしようとしているか、という話になります。遠野は北上高地の中の唯一広く盆地になっているところで、その東側に三陸の釜石とか大船渡とか陸前高田、気仙沼があって、震災の時は一番近い内陸の町として、後方支援の前線基地になっていた場所です。大学のキャンプも結構張られて、東大の研究室もそこにキャンプを張ったり、ボランティアが滞在して遠野から各場所に振り分けられたり、そういう場所になっています。
竹山 人口は何人くらいなんですか?
アタカ 人口は3万人です。遠野駅があるところが中心市街地と呼ばれているところで、ここから車で20分くらい行ったところに我々が拠点にしているクイーンズメドウ・カントリーハウスがあって、さらに先に行くと荒川高原牧場という国の重要文化的景観に指定されている、正確な起源はわからないけど少なくとも江戸時代より前から夏の馬の放牧のために開かれていたといわれる牧場があります(写真21)。
アタカ 遠野は馬の生産で昔から有名だった場所で、1955年までは馬が4000頭ぐらいいたらしいんですけど、そこから1975年までの間に70頭くらいにまで激減したそうです。今はだいたい150頭くらいじゃないかと思います。クイーンズメドウがあるのは遠野市の中でも山の中の集落で、11軒しか家がないという典型的な限界集落にあります。そこで馬を育成してその馬の堆肥で無農薬の有機農業をやって、それを続けながら森林や農地の環境を少しずつ再生していって、そこに宿泊ができる場所をつくって、自立して生活していけるような場所をつくるというのが馬付き住宅プロジェクトです。これは15年くらい前から続けられていて、全体のディレクションをやっているのは、シャノアール研修センターとか狭山ひかり幼稚園の外構デザインをしていたランドスケープデザイナーの田瀬さんなんです。田瀬さんにシャノアール研修センターが終わったときに、遠野で一緒にやらないかと声を掛けていただいたのがきっかけでスタートしました。1家族と2組の宿泊者が泊まれて2頭の馬が飼える住宅を敷地の中に点在させる計画をしてほしいということで、広い草原に連れて行かれて、「どこを牧草地にして、どこをパドックにして、どこに住宅を建てるか、道はどういうふうにつけるのか、電気はどうやって引くのか、水はどこから引いてどこに貯め池をつくるのか、全部自分で考えて」と言われました。およそ建築の、いままで僕が培ってきた技術では太刀打ちできない、建築すら始まらないという状態で途方にくれました。僕は東京の大学で設計を学んで、その延長でずっと東京で建物をつくってきましたが、その今までのやり方でつくっても、この風景の中に建って本当に良いなって思えるものがなかなかつくれないんですね。おまけに、インフラをどう引くかという建築を取り巻く一回り大きな範囲のことを計画するスキルを持っていない。ここで求められているのは、こういうフィールドや、曲り屋とかもあるような歴史のあるところで、例えば都会から移住してきて農業と馬のことをやりながら生活をしていこうっていう人の求める、本質的で新しいライフスタイルを表現するようなものだと思うんです。その答えは未だによくわからないんですけど。ただ、そういう移住者や旅行でやってきた人が、やっと遠野の奥地にたどり着いてげんなりするような建物や風景じゃいかんな、と。そこをごまかさないで、ちゃんと向き合っていきたいなと思っています。