布野 修司|『周礼』「考工記」匠人営国条考 

― 4 『周礼』都城モデル

『周礼』「考工記」匠人営国条に記載される事項は以上につきる。これを基にした都城モデルについても代表的なものをみてきた。それらについて触れてきたように,『周礼』「考工記」匠人営国条が理念化する都城モデルはひとつの平面図式に限定することはできない。様々な解釈が可能であるということであるが,そもそも「方九里,旁三門。国中九経九緯」をすっきりと体系的に図式化できないのである。以下に,基準となるグリッドを確認すると以下のようである。


 基準グリッドA
「方九里」ということで,全体形状は九里四方の正方形,と考えることができる。また,1里= 300 歩をナイン・スクエアに分割する井田モデルが想起され,全体を9 × 9 の「方一里」の正方形に分割するグリッドが基準分割線として考えられる。
 基準グリッドB
「旁三門」ということで,一般的には各辺に等間隔に門を配すると考えることができる。この場合,東西,南北の相対する門を結ぶ街路を想定できるから,全体は4 × 4 = 16 に大きく分割される。各区画の一辺は,2.25(9/4) 里= 675 歩となる。
 基準グリッドC
A , Bの分割をともに可能にする基準グリッドは,全体を12 × 12 = 144 の街区に分割するものとなる。この場合,1区画は,225 歩四方となる。
 基準グリッドD
「九経九緯」ということで,全体は10 × 10 = 100 もしくは8 × 8 = 64 に分割される。両端の環塗を「九経九緯」に含めるかどうかで2案となるのである。経涂,環涂,野涂の幅員をわざわざ区別して記載しているのであるから,10 × 10 = 100 と考えるのが自然である。この場合,1区画は270 歩四方となる。
 基準グリッドE ( B ‘)
8 × 8 = 64 分割であれば,Bのグリッドをさらに分割すればいいが,この場合,基準となる区画は337.5 歩四方となる。
 基準グリッドF
A , B , Dの基準グリッドを整合させるためには,単純には全体を60 × 60 = 360 に分割すればいい。この場合,グリッドの単位は45 歩四方となる。


 A , B , Dをわかりやすい数の体系として整合させることが難しいことから,「九経九緯」を「一道三涂」制と結びつけて解釈することが行われてきた。この場合,3つの主要街路を想定すればいいことになるが,門の間を等間隔と考えるのであれば基準グリッドBになる。問題は,区画の単位をどう設定するかということになるが,Aの「方一里」以外は,いずれもすっきりした数字にはならない。そこで,「方一里」を前提として都城モデル図を考えたのが賀業鋸であり,王世仁である。

 都城モデルA
賀業鋸は,環涂を「九経九緯」に含めるが,それだと「十経十緯」となるので中央の区画を2分割として,経涂,緯涂を1本減らしている。
 都城モデルB
王世仁は,環涂を「九経九緯」に含めないが,それだと「八経八緯」にしかならないので,賀業鋸のモデルを下敷きにして,中央軸線街路のみ「一道三涂」とする。
 都城モデルC
張蓉もまた,「方九里」を前提とするが,「旁三門」を、各辺九里を3里ずつ3等分した上で,それぞれの区画の中央に設定する。この場合,方三里を3 × 3 = 9 の方一里に分割するシステムは崩され,4 × 4 = 16 に分割する,すなわち,全体を12 × 12 = 144 の街区に分割するシステムを採用することになる。ただ,張蓉は「九経九緯」を考慮していない。
 都城モデルD
「九経九緯」を考慮しないのであれば,また,「一道三涂」ということにすれば,さらに,「方九里」も問わないとすれば,最も体系的なモデルとなるのは,上述のように,アマラプラでありマンダレーである。
ただ,井田制は田地のモデルであり,また,空間モデルとして確定したものがあるわけではない。それよりも,都市の街区としてのモデルについては,史書に言及があるわけではない。午汲古城を下敷きにした宮崎市定の想定図( 図7) や防牆制の遺構などが参照されるところである。賀業鋸が唯一,里坊の空間構造を示すところであるが,隋唐長安の「十字街」もひとつの解答である。
 都城モデルE
A,B,Cの折衷案となるが,都城モデルの一案を試みれば図8( 右頁) のようになる。すなわち,
①「方九里」ということで,まず「方一里」単位のグリッドを想定する。
②「旁三門」ということで,全体を「方三里」にナイン・スクエア(3 × 3 = 9) 分割した上で,それぞれの分割単位(「方三里」) の中央に門を設ける。これによって,全体を12 × 12 = 144 に分割するグリッドを想定する。すなわち,「方三里」を4 × 4= 16 に分割する( 都城モデルC )。
③「九経九緯」に環塗は含めない。ナイン・スクエアのそれぞれに3 本の経涂・緯涂を通すことによって3 × 3 = 9 経(9 緯) とする。但し,中央の「方三里」の周囲に経涂・緯涂を通すことを優先させる。すなわち,まず,全体をナイン・スクエア(3 × 3= 9) 分割する経涂・緯涂を通す。また,全体の中央に経涂・緯涂を通す。中央の区画は,中央と境界の経緯で3本となる。
④各「方三里」は4 × 4 = 16 に分割されるが,十字街をもつ450 歩× 450 歩の坊4つからなるとする。すなわち,坊は単一のモデルとなる。450 歩× 450 歩という坊は,隋唐長安には見られないが,唐長安城の坊の規模(350 歩× 350 歩, 450 歩× 350 歩,650 歩× 350 歩, 650 歩× 400 歩, 650 歩× 550 歩,但し,唐では,1里= 360 歩)と比較して,妥当な規模であろう。
⑤内部構成は,例えば,米田賢次郎の城内阡陌モデル( 図9) をほぼそのまま採用すれば,里坊のモデルを想定できる。米田賢次郎は阡陌、すなわち、方1000 歩、4坊からなる城郭モデルを考えるが、その場合、500 歩× 500 歩が一坊で、この場合,1 閭( 里)= 100 戸,10 閭( 里) =1坊( = 1000 戸)、1坊= 250 戸である。450 歩× 450 歩の1坊をモデル化すれば、一坊を10 × 10 のグリッド、すなわち、方45 歩のグリッ
ドに分けて考えるのが自然である。これはまさに上で議論した基準グリッドF である。方4歩を1戸に割り当てれば、坊は100 戸、2戸に割り当てれば坊は200 戸になる。賀業鋸のモデルでは,300 歩× 300 歩=8閭× 25 家= 200 戸,300 歩× 450 歩=12 閭× 25 家あるいは16 閭× 25 家= 400 戸という想定だから,450 歩× 450 歩=18 閭× 25 家~ 24 閭× 25 家= 500 戸~ 600 戸である。仮に方45 歩に5戸割り当てれば、坊= 500 戸、4坊=1里=2000 戸となる。中央の宮城区を除くと8( 方三里)×4坊= 32 坊× 500 戸= 16000 戸,1戸=5人とすると8万人の都城モデルとなる。
 いきなり飛躍するが、この450 歩× 450 歩=1坊のモデルは、大都の設計のモデルとなったのではないか。大都の街区は44 歩× 44 歩の正方形の敷地が10 戸で胡同と胡同の間の一街区を形成しているのである30
⑥「左祖右社」「面朝後市」は,中央の「方三里」に配置されるとする( 都城モデルB )。
⑦宮城の構成は,都城モデルAに従う。

(左)図7  (右)図9

30 鄧奕, 布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究, 日本建築学会計画系論文集, 第526 号,p175-183,1999 年12 月. 鄧奕, 布野修司, 重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察, 日本建築学会計画系論文集, 第536号,p163-170, 2000 年10 月

主要参考文献
応地利明(2011)『都城の系譜』京都大学学術出版会酒見賢一(2003)『周公旦』文藝春秋
布野修司(2006)『曼荼羅都市 ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会
間嶋潤一(2010)『鄭玄と『周礼』―周の太平国家の構想―』明治書院
戴吾三編(2002)『考工記図説』山東画報出版社
賀業鋸(1985)『考工記営国制度研究』中国建築工業出版社
賀業鋸(1986)『中国古代城市規画史論叢』中国建築工業出版社
楊寛(1987)『中国都城の起源と発展( 中国古代都城的起源和発展)』尾形勇,高木智見訳,西嶋定生監訳,学生社
王世仁(2000)『王世仁建築歴史理論文集』中国建築工業出版社
叶驍軍(1986)『中國都城歴史図録』蘭州大学出版社
同済大学城市規劃教研室編(1982)『中國城市建設史』中国建築工業出版社

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