布野 修司|『周礼』「考工記」匠人営国条考
(2)「方九里」「旁三門」「九経九緯」:街路体系と街区分割
「方九里」「旁三門」「九経九緯」という極めて単純な数の体系が問題となる中で,注目すべきモデルを提出したのが賀業鉅(1985,1986)27 である( 都城モデルA )。賀業鉅の都城モデル図( 図4a) は,「考工記」を基にして描かれた最も詳細なものであり,都城の内部構造を問題にするそれまでなかったモデル提案として評価される28。その後,王世仁(2001),張蓉(2010) など新たな解釈の展開もある。以下に具体的に検討したい。
賀業鉅が出発点とするのは「方九里」である。そして,中国古代において理想的と考えられていた「井田制」による分割単位( 方一里=井) を前提とする。「方九里」の正方形を各辺一里ずつ9分割すると全体は81 区画からなる。1区画は方一里,すなわち,方300 歩である。ところがこれだと,以上のように「旁三門」「九経九緯」と整合性がとれない。そこで,賀業鉅は,次のように考える。
(2)「方九里」「旁三門」「九経九緯」:街路体系と街区分割
「方九里」「旁三門」「九経九緯」という極めて単純な数の体系が問題となる中で,注目すべきモデルを提出したのが賀業鉅(1985,1986)27 である( 都城モデルA )。賀業鉅の都城モデル図( 図4a) は,「考工記」を基にして描かれた最も詳細なものであり,都城の内部構造を問題にするそれまでなかったモデル提案として評価される28。その後,王世仁(2001),張蓉(2010) など新たな解釈の展開もある。以下に具体的に検討したい。
賀業鉅が出発点とするのは「方九里」である。そして,中国古代において理想的と考えられていた「井田制」による分割単位( 方一里=井) を前提とする。「方九里」の正方形を各辺一里ずつ9分割すると全体は81 区画からなる。1区画は方一里,すなわち,方300 歩である。ところがこれだと,以上のように「旁三門」「九経九緯」と整合性がとれない。そこで,賀業鉅は,次のように考える。
(2)「方九里」「旁三門」「九経九緯」:街路体系と街区分割
「方九里」「旁三門」「九経九緯」という極めて単純な数の体系が問題となる中で,注目すべきモデルを提出したのが賀業鉅(1985,1986)27 である( 都城モデルA )。賀業鉅の都城モデル図( 図4a) は,「考工記」を基にして描かれた最も詳細なものであり,都城の内部構造を問題にするそれまでなかったモデル提案として評価される28。その後,王世仁(2001),張蓉(2010) など新たな解釈の展開もある。以下に具体的に検討したい。
賀業鉅が出発点とするのは「方九里」である。そして,中国古代において理想的と考えられていた「井田制」による分割単位( 方一里=井) を前提とする。「方九里」の正方形を各辺一里ずつ9分割すると全体は81 区画からなる。1区画は方一里,すなわち,方300 歩である。ところがこれだと,以上のように「旁三門」「九経九緯」と整合性がとれない。そこで,賀業鉅は,次のように考える。
各辺の3門を等間隔に配することは出来ないが,中央に主門を設けるのは自然である。そうすると中央の区画は2分割するのが素直である。150 歩× 300 歩の区画が生じるが隣接する300 歩× 300 歩の区画と合わせると300 歩× 450 歩の区画となる。
2種類の区画が出来ることになるが,そして,道路間の間隔も異なるが,環涂も含めて「九経九緯」となる。平安京のような単純な等間隔のグリッドをよしとする感覚からは違和感があるかもしれないが,例えば長安の場合など区画( 里坊) の単位は5種類あるのであって,東西南北( 左右前後) は対称であり,ひとつの形式的に整合性がとれたモデルといっていい。この賀業鉅モデルについては,続いてその内部構成を検討しよう。そこで触れるが,賀業鉅と同じ街路体系を提起しながら,異なる施設配置を考える王世仁(2000) 案( 図5) もある( 都城モデルB )。
賀業鉅の街路体系モデルについては,他にも案を提出できる。応地利明(2011) が8 ×8 = 64 分割の単純グリッド案を提出していることは上述の通りである( 図2)。
他の案として注目すべきなのが張蓉(2010) の提案( 図6) である( 都城モデルC )。張蓉は,「九分其国,以為九分,九卿治之」を重視し,「九分其国」を出発点とする。すなわち,3 × 3 = 9 のナインスクエア・モデルをまず設定する。「方九里」も当然前提となり,全体は方三里の区画9 つからなることになる。そして次に,「旁三門」を考慮する。この場合,各辺を3等分した上で,それぞれの中央に門を設けるのが自然である,とする。方三里の中央を道路が貫通することになるが,各辺は均等割りにはならないが門の間隔は等しい。続いて「九経九緯」を考慮する。これも方三里で考えると,先に配置した門の左右を等分するのが自然である。方三里に3本ずつ道路が通り,「九経九緯」となる。ただ,「九経九緯」は等間隔とはならない。またこの場合,方三里の区画は,4 × 4 = 16 に分割されることになる。三里の4 分の1 だから半端であるが,歩を単位とすれば225(300 ×3/4=225) 歩四方が下位単位となる。全体を12 × 12 = 144 に区画したグリッドをもとに門,街路を配置する案である。
(左)図5 (右)図6
この張蓉(2010) の提案は,ある意味で当然で,「旁三門」(4 × 4) 分割と「方九里」( ナイン・スクエア)(3 × 3) 分割とを整合させようとすると,公倍数である12 × 12 分割を前提にすればいいのである。おそらく同じ問題に悩んだであろう,アマラプーラあるいはマンダレーの設計者は同じ解答を提出したのである。アマラプーラもマンダレーも各辺は均等割りされ,門間の距離は同一となる( 図3ab)。
(3)王宮・朝・祖・社・市
街路体系に基づいて区画された街区に各施設が割り当てられるが,匠人営国条が規定するのは上述のように極めて少ない。そこで他の史書や考古学的実例をもとにした考察が付け加えられていくことになるが,ここでは匠人営国条の記述に限定しよう。
手掛かりは,「左祖右社,面朝後( 后) 市」のみである。「中央宮闕」という記載はないが,左右,前後というのであるから,中央に王宮を設定するのは前提である。
賀業鉅は,まず,中央の方三里( 9井( 区画)) を宮城に当て,その南前,3区画を宮前区とし,合わせて12 区画を宮廷区とする。宮前区には,中央に外朝,東に宗廟( 左祖)と府庫,西に社稷壇( 右社) と厩が置かれる。そして,主門に続くその前の2区画を官衛( 官署) に当てる。市は中軸線上宮城の北に配されるが,その市との関係を考慮し,東北の9区画のうちの2区画を倉庫に当てる。さらに一般の居住区を貴族,卿大夫の国宅と商工業者の閭里( 廛) に分けて配する。当然,国宅は宮廷近くに配されることになる。
この賀業鉅の施設配置は既に匠人営国条を超えている。あまり着目されず通常無視されてしまうが,賀業鉅の全体配置図には,都城の中央断面図というべき南北中軸線上に諸施設を門とともに並べたもう一枚の図がある( 図4b)。市と外朝,官衛( 官署) については,このディテールの検討によってその配置と規模が推定されたと思われる。これについては続いてみたい。
疑問なのは,市に2夫( 畝) が当てられていることである。また,東北の9区画のうちの2区画を倉庫に当てていることである。後にも触れるが,何故,「市朝一夫」という記述を無視するのかは理解できない29。各用途の都城全体に占める割合を賀業鉅は示しているが,それによると,宮廷区は14.8%,国宅区が9.8%,閭里区が70.1%である。理念から,都城の現実的あり方へ,その関心のウエイトが向けられていることが推測できる。
賀業鉅の都城モデル図が現実的設計に傾いていくのに対して,賀業鉅の全体計画図をもとにして,王宮・祖・社・市・朝を極めて理念的に配置して見せるのが王世仁(2001) である( 図5)。賀業鉅と王世仁の都城モデルの違いは,大きく2つある。
①「九経九緯」について,環涂を含めず,中央の経涂と緯涂を27 軌( すなわち三経涂( 緯 涂)) とする。
②中央方三里を3 × 3 = 9 区分し,中央の区画( 方一里) を宮とし,中央東西南北の 区画( 方一里) の中央一夫( 井) にそれぞれ祖・稷,朝・市を配置する。東北区画に厩, 西北区画に庫,東南,西南の区画に署( 官署) を置く。
厩,倉,署といった施設の配置は匠人営国条の規定にはない。また,市について,宮城内中央北に配置した市は官市であるとして,都城の東南,西南に市を?マークつきで示しているのも逸脱である。しかし,全体として匠人営国条の理念を図式的に示しているという点では賀業鉅のモデルよりすっきりしている。
匠人営国条には,上述のように,その他に宗廟,正堂,明堂についての記述があり( B ),門についての記述( C ) がある。
王宮の構成について,賀業鋸に従ってみると以下のようになる。
宮垣・宮門:「王宮門阿之制五雉,宮隅之制七雉」とある。雉は丈で,城壁高さは,隅部は七丈,その他は五丈である。門は,廟門,闈門,路門,応門とあってそれぞれ大きさが規定されている。大扃,小扃は,『鄭玄注』によるとそれぞれ3尺,2尺で,廟門は21 尺,闈門は6尺ということになる。路門は車が5台以上,応門は3台以上通ることができなければならない。『詩経』『書経』に宮城正門の皋門,中門の応門の名が見えることから,鄭玄は,『周礼』秋官「朝士」注で天子は五門( 皋門-庫門-雉門-応門-路門),諸侯は三門( 皋門-応門-路門) という説を示しているが,清代の江水,焦循らは,天子も諸侯も三門( 皋門( 庫門) -応門( 雉門) -路門) で名のみが異なるとする( 田中淡(1989))。賀業鋸も,皋門-応門-路門を執る。
三朝:外朝( 大廷)( 臣下が政務を行う空間),治朝( 天子の執務空間),燕朝( 天子の私的日常空間) から宮廷が構成されるという「三朝」制度については,匠人営国条に記述はない。ただ,賀業鉅は,『周礼』の「大司冠」「小司冠」「朝士」などを引いて,基本モデルの前提としている。
寝宮:「内有九室,九嬪居之,外有九室,九卿朝焉」をどう解釈するかについても明らかではないが,内朝に九室あって九嬪( 宮中女官) が居住し,外庁に九室あって,九卿が執務するということであろう。
官府:官衙等施設についても匠人営国条は何も記述しないが,賀業鉅は『周礼』等の記述から必要施設を想定する。
以上をもとに,賀業鉅が宮廷区の基本モデルとするのは図4cd である。
廟社:宗廟,社稷についても,匠人営国条には「左祖右社」とあるだけである。賀業鉅は,ここでも『礼記』王制など古文献をもとに加え,宗廟については,七廟制でおのおのが独立した建築であったとして図4e のように復元する。
市:市についても,匠人営国条には「面朝後( 后) 市」と「市朝一夫」とある。賀業鉅は,後ではなく后の字を使うが,「宮后之市」という意味だとして,位置については「宮前之外朝」に対して北にあるという,通常の解釈を採る。問題は,「市朝一夫」であるが,賀業鉅は,「市朝」は市の広場のことで,市を除く一夫がさらに営業,駐場官員,事務所,「廛」などのスペースとして必要と考える。
27 賀業鋸,『考工記営国制度研究』,中国建築工業出版社,1985 年。『中国古代城市規画史論叢』,中国建築工業出版社,1986 年。
28 応地利明(2011) は,賀業鉅(1985,1986) のモデルを『周礼』理念にほぼ忠実だとしながらも退けるが,応地の都城モデルの場合,街区の内部構造までは問題にしていない。
29 応地利明(2011) 案の場合, 宮殿が4 分の1(16/64),市場が8分の1(8/64),朝廷が同じく8分の1(8/64) を占めることになる。「市朝一夫」は全く考慮されていない。