布野 修司|『周礼』「考工記」匠人営国条考
― 2 「考工記」匠人営国条
中国都城の理念型というと決まって引用されるのが,「考工記」匠人営国条である。中国最古の技術書が「考工記」であることは間違いないが,その成立時期については,鄭玄は「此前世識 其事者記録以備大数尓」、要するにわからないといい,賈公彦は「先秦之書」というが,春秋末期,戦国初期,戦国後期,戦国年間,秦漢期と諸説がある。唐の孔穎建(574 ~ 648)18 は「西漢人作」とし,東周( 成周) がモデルとする。一方,清の江永は「東周后斎人所作」( 春秋時代の斉国の制を記したものである) という。
「考工記」全体は7,000 字足らずにすぎない。そして,その構成は必ずしも体系的には見えない。すなわち,記述される項目の順序,分量については大きな偏りがある。冒頭に「国有六職」とあるように,扱われているのは,攻木( 木工),攻金( 青銅鋳造),攻皮( 皮革製造),設色( 絵画,染色),刮摩( 玉,石),摶人( 陶器製造),の6分野である。加えて,輪人,輿人,輈人,梓人,廬人,匠人,車人,弓人という職種毎の記述がある。輪人,輿人は,馬車,牛車の車部,輿部の設計に関わる。輈人は物理学,天文学に関わる。梓人は,食器,酒器などを含めた工芸品の作成に関わる。廬人は武器,車人は,牛車,弓人は弓の製作にそれぞれ関わる。
戴吾三編(2002) は,「考工記」の構成について,篇,節,段を分けて,それぞれ字数を示してくれている( 表1)。
「考工記」には,匠人( すなわち建築土木を担う官) で始まる条が,「匠人建国条」,「匠人営国条」,「匠人為溝洫条」と3つ並んである。その2番目の「匠人営国条」が都市計画,宮室建築に関わって,古来様々に引用される。
(1) 匠人建国条
匠人建国条の全文は以下である。
「匠人建國,水地以縣。置槷以縣,視以景。為規,識日出之景,與日入之景。晝參諸日中之景,夜考之極星,以正朝夕。」
「國」すなわち都市( 城邑) の建設に当たって,水平を定め,棒( 標柱,グノーメン) を立て,円を描いて,午前午後の棒の影と円の交点を結んで東西南北を定める方法を記す。この方法は洋の東西を問わないよく知られた方法である。
(2) 匠人為溝洫条
匠人為溝洫条は,田に溝を切って水を引く方法について述べている。全文を示せば以下である。
「匠人為溝洫。耜廣五寸,二耜為耦。一耦之伐,廣尺深尺謂之畎。田首倍之,廣二尺,深二尺謂之遂。九夫為井,井間廣四尺,深四尺謂之溝。方十里為成,成間廣八尺,深八尺謂之洫。方百里為同,同間廣二尋,深二仞謂之澮。專達於川,各載其名。凡天下之地勢,兩山之間必有川焉,大川之上必有涂焉。凡溝逆地阞,謂之不行;水屬不理孫,謂之不行。梢溝三十里而廣倍。凡行奠水,磬折以參伍。欲為淵,則句於矩。凡溝必因水勢,防必因地勢,善溝者水漱之,善防者水淫之。凡為防,廣與崇方,其殺參分去一。大防外殺。凡溝防,必一日先深之以為式,里為式然後可以傅眾力。凡任,索約大汲其版,謂之無任。葺屋參分,瓦屋四分。囷窖倉城,逆墻六分。堂涂十有二分。竇,其崇三尺。墻厚三尺,崇三之。」
(3)匠人営国条
続いて,匠人営国条の全文を以下に掲げよう。都城に触れる部分は少なく,専ら引用されるのは冒頭部分だけであるが,後段にも,ここで議論するのに必要な「九分其国,以為九分,九卿治之」といった重要な記述もある。匠人営国条は,大きく分けると3 つの部分( A )( B )( C ) からなる。
( A ) 匠人営国,方九里,旁三門。国中九経九緯,経塗九軌。左祖右社,面朝後( 后) 市。市朝一夫。
( B ) 夏后氏世室,堂脩二七,廣四修一。五室,三四步,四三尺。九階。四旁兩夾,窗白盛。門堂三之二,室三之一。殷人重屋,堂修七尋,堂崇三尺,四阿,重屋。周人明堂,度九尺之筵,東西九筵,南北七筵,堂崇一筵。五室,凡室二筵。室中度以几,堂上度以筵,宮中度以尋,野度以步,涂度以軌
( C ) 廟門容大扃七个,闈門容小扃三个。路門不容乗車之五个,応門二徹三个。内有九室,九嬪居之,外有九室,九卿朝焉。九分其国,以為九分,九卿治之。王宮門阿之制五雉,宮隅之制七雉,城隅之制九雉。経塗九軌,環塗七軌,野塗五軌。門阿之制,以為都城之制。宮隅之制,以為諸侯之城制。環塗以為諸侯経塗。野塗以為都経塗。
( A ) は都城の全体について述べる。( B ) は,宮室関連施設( 夏后氏世室,殷人重屋,周人明堂) について,( C ) は,門そして道路についての記述である。
( A ) については,通常,以下のように解釈される。
「方九里」:国( 都城) は九里四方である。
「旁三門」:各辺に3つの門がある。
「国中九経九緯」:南北( 経),東西( 緯) それぞれ九条の道路がある。
「経涂九軌」:南北道路の幅( 経涂) は車九台分の幅( 九軌) である。『鄭玄注』によって,軌は8 尺とされる。経涂は8 × 9 軌= 7 丈2 尺(72 尺) となる。
「左祖右社」:左に宗廟,右に社稷を置く。
「面朝後( 后) 市」:朝に向かい( 面し),市を後にする。宮廷( 宮城) は外朝に面し,市は後方に置く。市が宮の後ろ( 北) にあるのは事例が少ないことから,また,後を后とする例がある19 ことから,面朝后市,皇帝は政務を司り,皇后が市を管理する,あるいは,午前は政務を執り,午後市を観る,という解釈も提出されている20。
「市朝一夫」:市と朝はそれぞれ広さ一夫( 百歩四方) である。
( B ) については,中国古代の建築類型である宗廟( 夏后氏世室),正堂( 殷人重屋),明堂( 周人明堂) を探る上で極めて重要であるが,『鄭玄注』以降の諸説をめぐって,田中淡(1995) による考察が要点をつくしている21。
隋長安の設計者,宇文愷の明堂の復元案をめぐる議論は,その寸法体系など都市計画を考える上でも興味深いものである。これについては,王宮など宮殿建築に関して後に見よう。
( B ) の最後に「室中度以几,堂上度以筵,宮中度以尋,野度以步,涂度以軌」とあるのは,寸法の単位を述べたくだりとして注目される。すなわち,室内は「几」,堂( 明堂) は「筵」,宮廷は「尋」,野( 敷地) は「歩」,道路( 涂) 幅は「軌」で計る,というのである。『鄭玄注』他注釈によれば,1「几」=3尺,1「筵」=9尺, 1「尋」=8尺,1「歩」=6尺,車軌の幅1「軌」=8尺である。
( C ) については,門の種類と規模,および数が列挙される。注目すべきは,九,七,五,三という奇数系列の比例関係が貫かれていることである。廟門は,大扃として七,闈門は小扃として三,路門は車が乗り入れられない幅で五,応門は三,設けるという。扃は扉の「かんぬき」で,『鄭玄注』によると大扃は長さ3尺,小扃は長さ2尺である。雉は高さで,一般に1丈(10 尺) と考えられている。
ここで宮城の構成に関わって,廟門,闈門,路門,応門が挙げられていることに留意が必要である。
「経涂九軌,環涂七軌,野涂五軌」は,既に( A ) に触れられているが,環涂すなわち城壁に沿う環状道路は車7台分(56 尺) で野涂すなわち城外の道( 野塗) は5台分(40 尺)とする。
匠人営国条について,ほとんど注目されることがないが,( C ) において注目すべきが「九分其国,以為九分,九卿治之」である。直前にも「内有九室,九嬪居之,外有九室,九卿朝焉。」とあって,九がここでも強調されている。「国( 都城) を九つに分け,さらにそれを九つにわけて,九人の卿が之を治める」というのは,『周礼』「考工記」の理念化する都城モデルを概念図として示す際の大きな鍵となる。
18 太宗李世民に信任され,魏微と共に隋史の修撰に参画した。『五経正義』170 巻の撰述で知られる。
19 『欽定礼器義疏』付録「禮器図」巻1「朝市廛里」の俗本の「後」は「后」の誤植であるという。
20 礪波護は,『周礼』天官冢宰の内宰の条に,「およそ国を建つるに,后を佐けて市を立つ。・・・」とあり,鄭玄は,「王は朝を立て,后は市を立つ。陰陽相成の義なり。」と注していることを指摘して,朝と市はそれぞれ天子と皇后によって主催されるべし,という思想があり,陰陽思想によって説明されるとする( 礪波護,「中国都城の思想」,岸俊男編『都城の生態』,中央公論社,1987 年)。
21 宮室についての全文とその解釈は,田中淡の論考(「第1 章 「考工記」匠人営国とその解釈」『中国建築史の研究』,弘文堂,1989 年,5 ~ 26 頁) 参照。